明智光秀と亀岡・丹波・山国・近江   2019/11~12

 来年(2020)は、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映が始まります。長年の誘致活動の実った形で楽しみなことですね。

 光秀公は土岐の出身と言われておりますが、本展の物語は湖東の安土城から始まります。光秀公は織田信長に仕え、幾多の戦功を立て、取り立てられていくにつれ、各地の所領を任されていきました。亀岡の城下町もその基礎を造ったのは光秀公ですし、福知山の城下町についても同様です。

 今までの明智光秀公のイメージは「天下の逆賊」として様々なストーリーに登場していますが、本等にそうだったのかと、歴史資料を元に、功績や人柄を見直していく研究も進み、知将として、文化人としての光秀像も浮かび上がってきています。

 さて今回の展示では、光秀公ゆかりの地を空撮写真や現地の写真などを組みあわせ、それぞれのストーリーを思いおこしていただけるよう企画しました。

 解説はおなじみ、愛宕山に住むという「愛宕太郎坊大天狗」です。愛宕山の頂上にある愛宕神社に奉納されている絵馬(伊達政宗の家臣、片倉小十郎重綱が奉納したもの、下図)には、緋色の僧衣と袈裟をまとい、地蔵の持物である錫杖を構えた鳶の顔の天狗が、愛宕の神の使いとされる疾走するイノシシにまたがっている様子が描かれています。この天狗「太郎坊」が亀岡を中心に空から見た光秀公ゆかりの地を紹介していきます。

 今回の展示にあたりましては、亀岡市文化資料館を始め、各自治会にもお世話になっております。また、今年5月にお目見えした南郷公園「明智光秀公像」の原型取材にはアダピス社のご協力をいただきました。たくさんの方のご協力ありがとうございました。

 戦国の世、丹波、山城、近江と風のように駆け抜けた知将・明智光秀公の物語を、時空を飛び越える天狗となって飛び回っていただきたいと思います。それではごゆっくりご覧下さい。

 

2019年10月 亀岡市 ガレリアかめおか 2019年11月 サンサ右京  2019年12月 右京区役所京北出張所2階
3回実施いたしました。

 

ご挨拶

 

安土城跡 光秀公物語の始まり     撮影日 2018/7/10他 aduchi assemble 5500

 光秀公は、土岐の出身ということらしい。物語に出てくる頃には織田信長に仕えておった。
 さて、織田信長は安土に城を作った。琵琶湖の水面に立ち上がる安土山に立派な天守があったそうな。近くの今でこそ干拓でお城の周りは田圃じゃが、当時は安土城の周りは湖じゃった。 安土城跡の近所に「安土城天主 信長の館」があるが、ここへ行くと、絢爛豪華な天主の復元物がある。このあたりには資料館、博物館、セミナリヨ跡などたくさんの見所があるので、大河ドラマ「麒麟がくる」 の予習にもってこいじゃな。

比叡山 延暦寺   撮影日 2007/8/12他 hieizan assemble 1000
織田信長に従属しない比叡山は敵対関係となり、元亀2年9月12日に「延暦寺焼き討ち」という結末を迎えることになる。その頃の比叡山延暦寺は多くの僧兵を抱える武装勢力であり、焼き討ち後は叡山寺領は明智光秀に配分されることになるわけじゃ。

 さて、延暦寺と言えば比叡山、比叡山といえばわしの手下の「次郎坊天狗」についてじゃが、元々はもとは比叡山に住んでおったが、比叡山に法力の強い法師がぎょうさん集まってきたため、滋賀の比良山に移り住んだと愚痴っていた。 これは、天台宗の力が強大になり愛宕系密教を追いやるという構図じゃな。愛宕山のほうが比叡山より少し高いというのも喧嘩して比叡山に殴られたので、たんこぶの分高いということじゃが、これも先の勢力争いの話が元ネタかのう?

 

 

坂本城跡   湖岸の水城    撮影日 2014/9/10他 sakamotojyo assemble 1000 

比叡山の麓、坂本の湖岸には坂本城があった。
 比叡山への物資輸送のための港町として栄えておったが、この地に城がある意味とは比叡山の勢力の押さえとしての意味もあるのじゃ。
 宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記しておる。安土と同じく水城ということで類似点もあるのじゃろう。
 光秀公はこの坂本を拠点として丹波へ侵攻していくのじゃ。
 今は、湖中に石垣を残すのみ。 大河ドラマ効果で至る所に光秀公ゆかりの地のノボリが立ち、賑やかじゃな。 
 公園の案内版にあった図を、写真に落とし込んでみたが、おおかたこんな感じかのう?

湖西の城跡   湖上からの風景    撮影日 2014/10/26他 kosei assemble 5500

光秀公の湖西攻略の舞台じゃ。
 今堅田城・雄琴城・荒川城・木戸城・田中城・大溝城などそれぞれエピソードがあるが、湖西という地域を大きく俯瞰してみなされ。
 若狭から湖西陸地を通り、大津へという陸路、また大量輸送可能な湖上路を握ることは、地域支配の要じゃな。
 ところで、琵琶湖バレイ蓬莱山頂上から飛んで青柳浜南側の大谷川河口に着陸するという、天狗の真似をして空をパラグライダーで飛んでおるのじゃが、ここがまた、日本でも最大級の高低差1000mを誇るフライトエリアなのじゃ。琵琶湖テラスもいいが、ぜひとも一度は飛んで見なされ。天狗の眼で琵琶湖周辺の戦国時代の物語を大パノラマで見られてはどうじゃ?

宇津城跡  京北宇津     撮影日 2015/10/15他 utsujyo assemble 5500 

光秀公の丹波平定の折、宇津氏は光秀公に抵抗したものの、天正七年、ついに光秀軍によって宇津氏は滅亡したという話じゃ。
 愛宕山からも宇津と言えば天狗にとってはすぐの場所。空から見ると山のてっぺんの宇津城跡は杉や桧ではないのう。楓かな。わずかに色づいておるわい。
 この宇津の地を見下ろす形の城の構え、昔の山城の典型というところじゃ。
 山麓には八幡神社があるので、行ってみなされ。また、宇津峡公園は上桂川のUターンしている場所にあり、キャンプで賑わう所じゃ。ここもアウトドア派は要チェックじゃの。

慈眼寺 京北周山   撮影日 2015/2/23他 jigennji assemble 5500 

 周山の城山の麓に曹洞宗の慈眼寺がある。本堂の本尊に、聖観世音菩薩が祀られている。晩秋には杉や桧ばかりの京北では特に目立つ紅葉と銀杏のスポットであるから、秋には必ず行って見なされよ。
 そして有名なのは、黒塗りの光秀公像じゃ。逆賊の汚名を着せられた光秀公の像を金具を外し刀も外し、墨塗りにすることで、破壊を免れたという話が伝わっておる。文武両道で治世にも秀でたお方じゃったそうな。写真の右腕あたりにうっすらと桔梗紋が見えるかの。

周山城 西の鯖街道の守り     撮影日 2016/6/16他 syuzan assemble 5500 

 京北は、山国と弓削が二股に分かれた地形じゃが、その要にあたる周山に城が築かれたのじゃ。西の鯖街道を見下ろす山城じゃな。 天正7年(1579)明智光秀公により築城されたものじゃ。
 もともと、この辺は縄野と呼ばれていたが、善政を敷いたとされる周の武王に自らをなぞらえて周山と改めたといわれておる。 
 天正10年までは明智光忠が城主として居城、本能寺の変後明智氏滅亡と共に周山城は廃城となったという話じゃ。
  この4月から20年ほど続いたパラグライダーのテイクオフ場が閉鎖されて、京北の空を飛ぶことがなくなってのう。天狗としては寂しい思いをしておるわい。

常照皇寺    撮影日 2012/10/8他 jyosyokoji assemble 1000 

 京北へ来たなら山国の北西の奥、常照皇寺は必ず寄っていただきたい名所じゃな。「御車返しの桜」や、「九重桜」の時期はもちろんだが、冬の雪景色もまた京北らしい一面を見せてくれるぞ。
 この常照皇寺では光秀公といえば、負のイメージじゃな。山国全焼戦にあたり寺域は全壊、また周山城の建設のため常照皇寺も含め周辺の社寺を取り壊したとある。境内には方丈や開山堂、怡雲庵が並び静かなたたずまいを見せる

丸岡城跡(余部城跡) 西岸寺あたり    撮影日 2019/5/12他 maruoka assemble 1000 

 元々、福井因幡守貞正の居城じゃったのだが、明智光秀公が福井氏を破った後から亀山城が築城されるまでは、ここ丸岡城が丹波の軍事拠点じゃった。 現在でも、「古城」「古城浦」「政所」などの地名が残っている。
 天正6年6月光秀公の軍勢が、宇津根・雑水川・安行山(平和台公園の山)の三方向から攻めて落城したということじゃ。
 このあたりは、大堰川の河岸段丘の上に当たり小高いところなので、城には適した所なのじゃろう。

亀山城下町  光秀公の居城    撮影日 2019/6/4他 kameyama assemble 5500 

 亀山城下町と亀山城址の様子じゃ。城下町の中には山陰道が通っているが、城の守りのために、街道はジグザクに曲がっておるのが分かるかの?
 さて、光秀公は、天正5年(1577)頃、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城したのじゃ。保津川と沼地を北に望む小高い丘を荒塚山といい、ここに築きなさった。光秀公は近隣の村から人を呼び寄せ、城下町を作らせたのじゃ。
 これが城下町の基礎となり、江戸時代に拡大、発展してきたと言われておる。その頃は層塔型5重5階の大天守の立派なお城じゃった。ところが、明治の廃城令後の様子は、城の名残もないぐらいに荒れ果てておった。大本教が買い取り整備をすすめるが、時代はきな臭い戦争前夜、弾圧によりことごとく破壊されたという歴史があるのじゃ。
 現在は城跡は大本の聖地として穏やかな時間が流れており、南郷公園にはこの5月に明智光秀公の立像が設置されたところじゃな。

谷性寺  明智光秀首塚    撮影日 2017/6/24他 kokusyouji assemble 1000 

 さて、亀岡といっても西の方、宮前町の田園風景の中に、「光秀寺」とも呼ばれる「谷性寺」がある。その創建は古く平安時代とされ、本尊は不動明王である。
 門前には「ききょうの里」があり、夏には花畑に紫色の桔梗が咲きほこる。境内には光秀公の首塚、境内入って右側には亀山城下町から移築された「明智門」がある。
 宮前町と言えば湯ノ花温泉も近いな。一風呂浴びてゆっくりしてから、愛宕山へ帰るとしよう。

神蔵寺  稗田野朝日山の懐   撮影日 2015/4/18他 zinzoji assemble 1000 

 亀岡市内から湯ノ花温泉郷へ入る交差点から左に曲がってどんどんと朝日山の麓を目指すと、神蔵寺にたどり着く。空から見ると大きな貯水池の奥に境内が見えるのじゃ。
 明智光秀公の戦で焼失したと伝わり、その時薬師本尊と両菩薩は菰に包んで岩山に隠し、難を逃れたとある。
 夏の桔梗が綺麗に咲いておったが、秋の紅葉もきれいじゃ。観光地ではないので、紅葉狩りの穴場と言ったところかの。

御影山城跡  出雲大神宮ご神体   撮影日 2017/5/8他 izumo assemble 1200 

 丹波一ノ宮出雲大神宮のご神体山の御影山には、城跡が残っておる。
「千年山集」には、小口村の安藤満五郎は御影山城(出雲)に陣し、明智の軍勢を防いだが、戦い利なくして城を出奔して丹後宮津へ赴き稲津甚左衛門と姓名を変えて過ごし、後小口の里へ帰った。記されておる。
 空から見ると、堀切が分かる。また頂上付近には石積み、列石が残っておる。
 さて、出雲大神宮は徒然草において「丹波に出雲と伝ふ所あり。大社をうつして、めでたくつくれり」と書き出され、社前の一対の狛犬についての話が出てくることでも有名じゃが、皆さんもご存じじゃろう。丹波一の宮というとおり、最近は更に「めでたく」手が入って何時も参拝客でにぎわっておるなあ。
 なお、御影山はご神体につき、入山は禁止されておるぞ。

神吉城跡  明智の城   撮影日 2016/6/3他 kamiyoshi assemble 1200 

 愛宕山の西山麓、宕陰からさらに北西方向へ目を向けると、南丹市八木町神吉という里が見えてくる。天狗もかなり年をとっているが、それよりずっとずっと前はここは池じゃったと言う話じゃ。下界の亀岡盆地よりここら辺の土地がだいたい200mほど高いのう。最近はやりの朝来市の竹田城ではないが、ここも亀岡の雲海からは上にある。天空の里じゃ。 
 さて、光秀公にゆかりの地ということでは、この神吉に城があった。和田区の南の山がそれじゃ。「丹波史」によると、現在の旭町、山階村と神吉村との間の峰にあり、「明智源七郎出張の址」とされており、天昇年間に明智左間介(秀満)が周山城と亀山城を結石中間地点の山城として、明智源七郎を当城に拠らしめたとある。

明智の戻り岩  法貴峠   撮影日 2019/3/8他 akechi modoriiwa assemble 1200

 亀岡の市街地から423号線で曽我部の法貴峠を目指してみよう。つづら折りが終わって、小さな橋(明智橋)の手前、国道下の旧街道沿いにあるのを見つけてみなされ。
 去年の台風で道がふさがっているので、国道から覗き込むしかなかろうが、この大きな岩が「明智の戻り岩」じゃ。
 光秀公が笑路城を攻めた際、この大岩に行く手をさえぎられ引き返したことから戻り岩といわれるようになったというのも一説じゃ。またの名を法華岩と言うが、「南無妙法蓮華経 南無法上日蓮大聖人」の題目に由来してのことじゃ。

丹波国分寺跡  千歳町国分    撮影日 2015/4/2他 kokubunnji assemble 1000 

 亀岡川東地域でも、明智の軍勢と戦ったことが伝えられ、天正6年丹羽・明智軍が荒木氏を攻めた時に伽藍が焼失したといわれておるな。
 現在の本堂は安永3年に護勇比丘(ごゆうびく)という御仁が中心となって全国から浄財を集め建立したとある。
 境内には大きな「オハツキイチョウ」の木があり、この木の垂れ下った樹皮が乳状になっている。母親が乳の出ない時にこのお寺に詣り、この銀杏の乳を撫で、その手で更に自分の乳を撫でると、母乳がよく出るようになるという俗信があるのじゃ。

福知山城   福知山のシンボル    撮影日 2019年2月23日 hukuchiyamajyo assemble 1000 

 ここ福知山城は丹波国を平定した明智光秀公が築城したが、明治の廃城令で建物や堀、石垣もかなり失われてしまい、遺構としては天守台と本丸の石垣が残されるのみとなっての。石垣には、宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれている。写真にも紹介してみたが、すごいのお。
 また、石垣を良く見てご覧なされ。西面の石垣が途中で継ぎ足されておるのが分かるかの?一度につくられたものではない証拠じゃな。幾度となく改修・増築されたということらしい。
 さて、ここで福知山音頭の歌詞を紹介しておくかの。光秀公のことも歌い込まれておる。

~福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ~ 
~明智光秀丹波を拡め ひろめ丹渡の福知山~
~お前見たかや お城の庭を 今が桔梗の花ざかり~

神尾山城跡   金輪寺     撮影日 2015/5/2他 kamioyama assemble 1000 

 今で言う国道477号、国道372号、府道73号と大阪から、亀山から、千代川からと街道が合流し、宮前町を見下ろす所に神尾山城跡がある。空から眺めても、ナルホド、この山に城をつくるのは意味があるなと納得する景色じゃの。
 さて、車でも境内まで行けるので、一度上がってみるのもよかろう。立派な本堂と、その裏手には「西国三十三諸石仏群」が安置されており、見応えもある。山の尾根筋には城跡があり、また半国山への道もある。
 光秀公ゆかりといえば、天正年間の八上城攻めの中継地としてこの神尾山城を使ったといわれておる。

岩城神社  戦勝祈願の社    撮影日 2015/5/2他 iwashiro jinnjya assemble 1000 

 永禄2年に光秀公が内藤氏の八木城を攻める際に、この神社で戦勝祈願をしたとされておる。
 場所は千代川町北の庄、上空から見ると、府道73号・いわゆる昔の愛宕道が、亀岡の平野部から山間部に入っていく要の地にあることが分かり、神社からは亀岡盆地が見渡せるのじゃ。

千手寺砦跡   獨鈷抛山 千手寺    撮影日 2015/5/2他 tokonage assemble 1000 

 「とこなげさん」という。行者山の8合目あたりにある「眼病」に霊験あらたかな寺じゃ。
 行者山の北には、内藤氏の八木城が控えている。光秀軍と内藤軍の戦いの際、光秀公はここを拠点としたという話じゃが、この寺も兵火に焼かれ寺院の大半が破損したといわれておる。
 寺の境内の上には砦跡があったとされるが、尾根まで行けば八木城も見えるからのう。
 さて、山の上にあるので、亀岡名物丹波霧の雲頂付近。ということは、雲海を眺めることができるスポットということじゃ。雲海の写真にもあるように、雲上の寺院というわけじゃな。

八木城跡  内藤氏の居城    撮影日 2009/9/16他 yagijyo assemble 1200 

 愛宕山から西に飛ぶと、八木城の城山がそびえておる。場所としては大堰川の通運の要、山陰街道の要所、山と川をうまく使った天然の要害の地に築城されており、丹波国三大城郭のひとつ(標高344m)にある山城じゃ。本丸、天守台、石垣といった遺構が確認できるそうじゃ。
 春日神社から少し西北西へ進み、登山口へ。40分ほどで本丸に到着する。眼下には亀岡盆地、遠く南東には亀山城が見える。ここは内藤氏の居城であったのじゃが、天正7年6月、明智光秀公は八木城の戦いで内藤有勝軍を破り落城させたという。  また、八木城は内藤ジョアンゆかりの城としても有名じゃな。手を合わせてから愛宕山へ帰るとしようか。

八上城跡  波多野氏五代の居城     撮影日 2019年8月7日 yagamijyo assemble 1000

  丹波の三大山城の一つ、八上城を紹介するとしよう。
 亀岡から篠山街道(デカンショ街道)を通って丹波篠山に入っていくと街道左手に「丹波富士」と呼ばれる高城山が見えてくる。
 麓の春日神社から登山口を入り、延々と続く急な山道を上がっていくと、尾根ごとに景色の広がる所に見張り砦跡があり、四方ににらみを効かせておる。山全体が要塞になっておるのじゃ。
 歴史では、光秀軍はこの山城を取り囲み、天正7年、兵糧攻めにより落城させたという。
 天主は9月を目処に樹木の伐採が進んで、四方を見渡せる城跡に変貌しつつある。さすが「大河ドラマ効果」じゃな。

黒井城跡   保月城   撮影日 2017年5月27日 kuroijyo assemble 1000 

 ここ黒井城は八木城、八上城と並び「丹波三大山城」の一つに数えられているところじゃ。 「丹波の赤鬼」として有名な赤井(荻野)直正の居城じゃ。
 信長は天正3年、光秀を総大将とする「丹波攻め」を開始し黒井城を攻める。激しい攻撃に黒井城は落城寸前だったが、八上城主・波多野秀治の軍が赤井軍に寝返ったことで、状況が一変。大打撃を受けた明智軍は、命からがら逃げ帰った。世に言う「赤井の呼び込み戦法」じゃな。
 直正は病気で息をひきとる。大将を失った黒井城の勢いは衰え、翌年8月、再び攻めてきた光秀に敗れた。こうして丹波平定戦が終わり、丹波国は光秀公が治めることになった。
 城址の登山口には解説板があり、丹波市の中川英明氏によるイラストが描かれているが、かっこええのう。

水尾  愛宕山への道    撮影日 2015/11/5他 mizuo assemble 1000 

 水尾という所は愛宕山西側の急斜面に集落がある。よくぞこの土地に住み着いたと思うような秘境じゃな。集落の様子は愛宕山の登山道の木立越しでもちらちら見える。
 さて、光秀公ゆかりといえば、保津から登る「明智越え」であろう。愛宕登山が趣味の方は、写真で辿れるかのう?
 光秀公は清和天皇の血筋、清和源氏の流れを組むお方じゃ。ということは、この水尾を通る際にも清和天皇陵にお参りしておったのじゃろう。
 こんなきつい傾斜の所で、柚子がさかんに作られているが、何かと天皇とのご縁があって、14世紀初頭の花園天皇が水尾の地に柚子を植えたとされているし、清和天皇は水尾の地を終焉の地と考え、ここ水尾の清和天皇陵で眠っておられる。水尾名物、冬は柚子風呂、鳥すきで水尾を楽しんでみてはいかがかのう?

愛宕神社  太郎坊の住処    撮影日 2016/7/30他 atago assemble 5500 

 わしは大天狗愛宕太郎坊である。この愛宕山に棲んで数千年、このあたりの森羅万象はまかせておけい。
 さて、愛宕山と明智光秀公といえば、織田信長を討つ直前に愛宕神社に参詣し、みくじを引いた話や、連歌会を催しその場で歌われた発句、「ときはいま天(あめ)が下(した)知る五月(さつき)かな」  が知られているな。その翌朝、5月29日、光秀公は信長を討つことを決意して下山したのじゃ。3日後の6月2日、明智軍は本能寺を襲撃し、信長は火の中で果てた。
 愛宕山は日本の歴史上で大事変にかかわる舞台なのじゃよ。光秀公は愛宕山頂上から、京の都を眺め己の描く天下の有り様に思いを馳せたのじゃろう。本殿にいたる平坦な場所は、僧坊のあったところじゃ。連歌会を催した「西の坊威徳院」もこのあたりにあったのじゃ。

明智越  保津から水尾へ     撮影日 2016/4/30他 akechigoe assemble 1200 

 光秀公の亀山城から大堰川を渡り、保津の町へ一直線。保津の「明智越え」入り口から山道で愛宕山を目指すルートのことじゃ。
 写真におおむねの位置をトレースしてみたが、ざっとこんな感じかのう。
 水尾には「清和天皇陵」がある。このお方,源姓の一族のルーツなのじゃ。明智光秀公も清和源氏の一族であるから、きっとこの地へ赴き、手をあわせたのに違いない。
 そうそう、清和源氏と言えば、亀岡篠町の篠村八幡宮には足利尊氏が祀られておるな。老の坂を越える前にも、この八幡宮で手を合わせたのかもしれぬな。

唐櫃越  篠町山本から桂へ    撮影日 2016/7/30他 karatogoe assemble 1000 

 明智軍は京への3つの道を通って進軍したともいわれているが、その一つ、篠町の山本から一気に山を登り、後は尾根沿いに桂まで降りていくという道じゃ。夜に進軍すれば、京の都から松明も見えるから、本能寺の変の時はこの道は通らなかったのでは?という説もある。
 ところで、この山本という集落、かつては保津と並んで、保津川舟運の権利を持っていた所なのじゃ。山本の浜でも保津川下りの船乗り場があってな。外国の貴賓も「異人道」を通って山本の浜から船に乗り、保津川下りを楽しんだもんじゃ。

老の坂越  進軍の道     撮影日 2015/5/2他 oinosaka assemble 5500 

 亀岡篠町から京都方面を俯瞰した、山陰古道の様子じゃ。愛宕山から西へちょいと飛べばこの景色になる。山陰古道が辿れるかの? ついでに、国道9号線や京都縦貫道を辿ってみてはどうじゃな。時代ごとに高い場所に移動しているのがおもしろかろう?
 画面中央付近の森が篠村八幡宮、清和源氏の流れをくむ、足利尊氏旗揚げの地として有名な神社で、光秀公の一万三千の軍勢もここを通ったのじゃ。老の坂を越える前に、この八幡宮で手を合わせたのかも知れぬな。
 老の坂を上り國分石を通り、首塚大明神で手を合わせ、沓掛へ降りていくという道筋じゃ。この山陰古道も当時から立派に整備されておったのじゃろう。

山崎の合戦場   天下分け目の天王山     撮影日 2014/7/26他 ooyamazaki assemble 5500 

 わしは、大山崎での大いくさの知らせをうけて仰天した。
 数日前に光秀公は愛宕山に登って来て、みくじを引いては考え事をしておったな。夜は白雲寺の西の坊で連歌会と、まさか合戦前とは思えぬことじゃった。その連歌会での「ときはいま天が下知る五月かな」という発句はどなたでもご存じのとおりじゃ。
 光秀公は羽柴勢との激突の末、敗走。居城坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の落ち武者狩りに遭い、そこで竹槍に刺されて絶命したともいわれるな。
 この天王山へ登れば、陶板で当時の物語が記されており、なかなか歴史探訪には面白いところじゃ。まずは平和な世の中、ありがたやありがたや。

勝竜寺城跡 光秀公三女 玉のお輿入れの城     撮影日 2019/5/11他 syoryuji assemble 1000 

 山崎の合戦で敗れた明智光秀公は,娘の嫁いだ先の勝竜寺城へ一時身を寄せたという。
 現在は復元されて、公園になっておる。近くには土塁なども発掘され一部保存されているので、歴史見学に行くのも良かろう。

光秀公ゆかりの地  京都市内探訪    撮影日 2014/4/3他 kyoto etc. 1200 

 天正10年6月2日早朝のことじゃ。愛宕山から都をみると本能寺あたりから火の手が上がっておった。世に言う「本能寺の変」じゃの。織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件じゃ。
 信長の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀じゃったが、その後に起こる山崎の合戦。南に羽柴勢、北に明智勢と夕刻より始まった戦は、結局羽柴勢の勝利。
 天狗は手を出さず高見の見物ではあったが、何度見てもむごいものじゃ、何度こういう戦があったことか。戦国の世とはまさにこの頃の話じゃ。で、光秀は坂本のお城へ逃げ帰る途中山科の小栗栖で襲撃されて命を落としたということで、今も「明智藪」としてその場所に碑が建っておるな。
 京都市内あちこちに「明智」にちなむ史跡があるぞ。来年の「麒麟がくる」の大河ドラマ、ひとつ予習で市内めぐりでもいかがかの?

光秀公ゆかりの地   山城鳥瞰     撮影日 2014/7/26他 yamashiro birdseye 5500 

 愛宕山から西山を辿って飛んで行くと、山城の地、すなわち京都盆地が見わたせる。
 上の写真は、松尾大社の山手から見たところ。下の写真は大原野あたりからの景色じゃ。
 光秀公の動きを辿りながら、物語の舞台を天狗の目で見てもらいたいものじゃな。もちろん、四百年余り前の山城、今のような町など何にもなくて集落がぽつぽつ、間は全て田畑や氾濫原。巨椋池もあり、今のような整備された三川合流ではなく淀みつつ交わる三川など、・・・
 城下町や神社仏閣、今で言う旧町内あたりだけをフルイに残して景色を想像してごらんなされ。ほら、古い街道を行く光秀公の一行が眼に浮かんで来ぬか?

京都スタジアム     撮影日 2019/11/2他 kyoto stadium assemble 1000

  亀岡駅の東側に、京都スタジアムが建設中じゃ。着工までいろいろあったが、来年には完成という。
 光秀公がご覧になったらさぞビックリ!かな。お城跡のすぐそばに、最新の施設、古きと新しきのおりあう景色となる。亀岡の新しいイベントスポットとして、活躍してもらいたいものじゃ。
 ちなみに、このスタジアムの一角に、「(仮称)麒麟がくる京都大河ドラマ館」が設置されるようじゃな。実際にドラマで使用された小道具や衣装などの展示、ロケメイキング映像の上映など(予定)、大河ドラマの世界観を体験できるものらしい。スポーツ施設としても楽しみじゃが、これもまた亀岡の魅力を発信できるいい企画じゃのお。

光秀公ゆかりの地   グーグルアースで見てみよう!    グーグルアース  

最近はグーグルアースという便利なものがあってな。居ながらにして世界中を空から見ることができる。
 天狗の目の代わりといってはなんだが、地理的な条件を考えながら衛星写真を辿ると、光秀公の丹波攻略の様子が分かりやすい。参考に見ていただきたい。
 光秀公が攻略する以前の丹波は国人衆が実権を握り協力関係を築いておった。主な丹波国人衆は下のごとしじゃ。 ・

赤井氏・・・ 丹波最大の版図を有する。 ・

波多野氏・・戦国初期、丹波一円を納めた戦国大名。 ・

内藤氏・・・ 丹波の守護代を務めていた名族。 ・

宇津氏・・・ 清和源氏土岐氏、東丹波の領主。 ・

須知氏・・・ 藤原南家出身船井郡の領主。