


| 愛宕山 | 四方よりの眺望 | 2013/12/29assem | 0373−0382−5500 |
わしは時々里に舞い降りて、自分の住む愛宕山を眺める時がある。気が向いたらちょいと飛んで行っては見物に行くのじゃ。 雪化粧の愛宕山を嵯峨野の広沢の池から見る。雪の降った後の朝、朝日に輝く愛宕山はまこと荘厳じゃ。 この北嵯峨あたりは歴史的風土特別保存地区とかで、昔の静かな農村風景が保存されておってな、昔の写真と言われても分からないほど。やっぱり京都ならではじゃ。 さて、愛宕山の頂上の形は特徴的で、どの方向からも愛宕神社のあるこぶの部分が良く分かる。人の話では昔比叡山が愛宕山を殴った時に出来たこぶということじゃが、わしの住むあたりの神域では神木ということで大事にされている大杉の高さもあいまって一層高く見えるのじゃ。 こんな雪の時でも神社の宮司さんは里から上がって来る。いつもは車で上がって来なさるが、雪かきしながらは大変じゃ。さらって来るのも人助けじゃが、まあ、手は出さんようにしよう。

| 愛宕山南東山麓 | 京都北西部のパノラマ | 2015/11/5 | 0611−0655−5500 |
11月ともなると、愛宕山の上の方は紅葉も見頃となるでな。里からたくさん人たちがハイキングにやってくる。
天気のいい11月は、空気の澄んだ日が多い。この日も気持ち良く京都市内まで飛んで行くと、自分のテリトリーが美しく見えたぞ。愛宕山越しに亀岡も見える。
国道162号線を山に向かうと高尾の神護寺、愛宕山の中腹の月輪寺見えるかの?わしの千里眼ではよく見える。パークウエイの紅葉もよーく見れば赤い線が見えるじゃろう?
遠くは蓬莱山も見える。そうそう、比叡山から行った比良山治朗坊や、鞍馬山の僧正坊はどうしているかな。ちょっと飛べばすぐに来れるのじゃが、最近は挨拶に来んなあ。天狗も忙しい・・・か?
この写真では京都の北、鷹峯付近も写っておる。愛宕神社の縁起として、亀岡の千歳の愛宕神社が元で、次に鷹峯に移され、後に愛宕山頂に移されたというものもあるのじゃ。

| 愛宕神社 | 2016/7/30assem | 0508−5500 |
わしの住処を紹介しよう。
愛宕山は京都と亀岡の間にある。この山を境に気象もまた違うのが良くわかるのが、下の写真じゃ。亀岡は秋口から雲海が出る。この写真はだいぶんと霧も消えてきた頃の時間帯じゃが面白いじゃろ?。
山の南西斜面には水尾という集落がある。こんなきつい傾斜の所で、柚子がさかんに作られているが、昔は樒も産物で、愛宕詣りの人たちで賑わっていたのじゃ。
そして「火廼要慎」のお札を求めてやってくるのが、頂上の愛宕神社じゃ。奥の院にわしはおる。
そうそう、ここ愛宕山では7月31日から翌日の8月1日が賑やかじゃ。「千日詣り」とか言ってぎょうさんの人が上がって来よる。だいたいな、1回の詣でで千日分の御利益なんて、誰が言いだしたんやろ?
平賀源内はんの「土用の丑」みたいなもんじゃな。「お上りやす〜」「お下りやす〜」とか、ぜえぜえ言いながら里から頂上まで人の列。
人の声やら祝詞やら、赤々と燃える火やら電球やら・・・いつの年もざわついて寝付きの悪い夜じゃの。常はひっそりとフクロウと虫の声ばかりなのじゃが・・・

| 月輪寺 | 2015/11/5assem | 0794−1000 |
愛宕山の中腹に月輪寺という寺がある。まあこんな所に寺など建てたなと関心するのは、野暮な話。愛宕神社かて、こんな頂上に立派な社を建てるんやで。信仰の力というのはすごい力を持っておるよ。
雪の月輪寺、右の写真で見つけることが出来るかな?
さて、この寺、鎌倉山と号して、真宗発祥の地。大宝4年(704)泰澄大師が開山、さらに天応元年(781)光仁天皇の勅を奉じた慶俊が中興した。この時、地中から得た宝鏡の銘に「人天満月輪」とあったため、寺号にしたという。空也上人やら法然上人やらも来なすった。
土砂崩れでだいぶ境内も荒れておるようだが、登山道も狭いので最近の重機も入れることも出来ず困っておられる。天狗のわしには手が出せん。大事な文化財じゃて、早めに手を打たねばのう

| 金蔵寺 | 2015/7/24assem | 0823−1000 |
昔は、お寺やら神社やら仲良うやっておったのだが、徳川の時代から明治の時代へと移り、政府は、それまでの「神仏習合」だった寺社に対して「神仏分離令」を発した。これに伴い「廃仏毀釈」という佛教排斥の時代があった。簡単に言えば「これからは佛教中心ではなく、神道中心に国を治める」という訳で、寺やら仏像やらが壊されるというむちゃくちゃな出来事じゃ。今まで僧だったものが神官となり、寺が神社になるといった大変革じゃ。多くの国宝級の仏像やら建物が壊された。
さて、この金蔵寺には「愛宕大権現」が祀られている。「なんで?」と思われるのも無理はない。この廃仏毀釈で白雲寺(現愛宕神社)にあった愛宕権現の本地仏とされる勝軍地蔵様が安置出来なくなった。そこで洛西の金蔵寺に移されることになった。・・・と簡単に言うとこうなる訳じゃ。
写真の遠景に愛宕山が写っているが、あそこからここへのお引っ越し。天狗ならばひとっ飛びだが、人間が担いで持ってくるとなると大変なことじゃったろうな。 この金蔵寺の愛宕権現の社も378mと高い山奥にあるのじゃ。秋は紅葉が綺麗じゃよ。

| 亀岡盆地の雲海 | 丹の湖のイメージ | 2016/1/5 | 0492−0512−5500 |
初秋から亀岡では雲海がでる。こんな時はわしもちょいと雲海見物としゃれ込む訳だが、京都の西山ぐらいから愛宕山を見るとこういう感じじゃ。特にこの日は雲の高さが高くて、ずっと昔に見たことのある、ここが湖じゃった頃の景色と思い出が重なって懐かしかったのう。
昔々、黒柄山で神さんたちが集まって、この湖水を干して国をつくろうと相談しはったと聞いておる。なんで愛宕山で集まらんかったかって?そりゃ、登ってくるのも大変だからねえ。
さて、下界ではすっかり霧で覆われて、外で干す洗濯物が乾かないとぼやいているのが、地獄耳で聞こえてくる。でも元気な市長さん、「亀岡の霧を売り出す!」と元気じゃ。うっとうしい条件を逆手にとるなんか粋じゃのう。最近ちと霧も少なくなったとは言え、まだまだ「丹波霧」は健在じゃ。
三郎ヶ岳でパラグライダーで天狗の真似をして空を飛んでおるが、あれで霧の中を飛ぶのも絶景と聞く。霧の間を抜けながら立体感のある空を楽しませてくれるそうじゃ。
ついでに太郎坊も売り出してもらおう思うたが、今はわしの住まいは京都市右京区嵯峨愛宕町1丁目ということらしい。亀岡じゃないのでダメかのう・・・

| 亀岡の国つくり | 伝承のイメージ | 2016/1/5assem | 0777-0817−5500 |
神様達のご相談の対象はこの雲海=丹の湖の湖水だ。この広大な湖の水を抜けば、それはそれは立派な土地が誕生するであろうと、八百万の神様たちが力を合わせ、保津峡の開削に着手したそうな。大変な事業だったろうが、そこは神様。たぶん難なくやってのけられたのだろう。人力ではとても及ばぬ大工事だが、それでもたくさんの鍬が使われ、工事が終わった後うず高く積まれた鍬の山を、今では鍬山神社として祀られているのじゃ。
空から見ると、亀岡から山城(京都市内)まで蛇行した保津峡がよく分かる。
じゃが、もっと広く見渡すと、実はこの保津峡は遠く北の方、佐々里峠から京北、日吉、園部と広大な地域の水が一カ所に集まる所。神様達が開削した保津峡ではあるけれど、たまの大雨で保津のあたりはよく水のつかる所なのじゃ。後世に人間達が少しずつ川作をしておったが、上流に日吉ダムという水留めができてからましになったようじゃがの。
そうそう、この水留めで出来た人工の湖、天若湖は「龍神様」が棲むということで最近名を売り出し中じゃそうな。そういえばこの間、湖の上を飛んでみたら、湖が龍の形に見えた見えた!。新しい地域伝説ということじゃな。太郎坊は応援しとるよ。
| 旧亀岡湖イメージ | 2016/1/5assem | 0492−0512−5500 |
雲海の写真と雲海のない写真を並べて見た。これで国作りのビフォーアフターが良く分かるかのうという案配じゃ。 ちなみに、この亀岡湖がなぜ出来たのかというお話もある。
・・・・昔大江山(老の坂)の西麓に大池があって大蛇が住んでいたのだが、往来の人を取って喰ったそうな。 ある時、夫婦連れの武士が通りかかったが, 早速に蛇が出て女の方を呑んでしまった。これを見た武士は池中に飛び込んで,蛇の腹中に這い入って刀をもって大蛇の五臓六腑を切りまくった。さすがの大蛇も, これには参って血を吐いて死んでしまった。その流れ出る血潮と共に武士は押し出されて, 危ない命を拾ったという。
そのために池の水は溢れて大江のごとく, 見る見る湖と化して赤い波が打ち寄せ初めた。故に国を丹波と名付け, 里を大枝(大江) と称したという・・・
前に話した神様の国作りの話の前のお話だそうな。
伝承はいろいろな地域でそれぞれの登場人物で似たような話が残っておるがのう・・・・
細かい突っ込みはなしで、歴史ロマンということで楽しむのがよかろう。

| 旧亀岡湖資料図 | 亀岡市史 | ***** |
太郎坊もたまには勉強しようと、亀岡のお城のそばの文化資料館という所に夜中にひっそり書物を見に行ったのじゃ。亀岡市史という立派な書物に、折り込みで旧亀岡湖の地図があった。それには標高280mほどの所に亀岡湖の水面であった証拠となる地形があり、その標高をつなぐと、こんな感じの地図になるというものがあった。
なんと、雲海の様子と同じ感じではないか。
この頃は京都盆地も旧山城湖という湖であった時代じゃ。
さて、2250万年前から500万年前という時期じゃが、はてさて、太郎坊はまだこの時には名前も貰っていない時代じゃのう。
役小角(えんのおずぬ)という行者に愛宕山の麓の清滝で出会ったのが、1300年ほど前、その時2000年ほど前から仏に命じられ、このあたりに居ると宣言したので、たかだか3300年じゃ。それ以前のことは、天狗とてやっぱり勉強しなくては知らぬことばかり・・・

| 神集いの山 | 黒柄岳 | 2012/7/16assem | 2603−2612−1000 |
空から黒柄岳を見つけるのは簡単な話じゃ。それに最近では、NTTとか言う会社の黒柄無線中継所電波塔が建ったので、なおさらじゃ。
季節もいいので、たまには保津の川下りに人間に化けて乗ってやろうと河原まで降りてくると、例の黒柄岳電波塔が見えておる。逆に天狗としては新鮮に感じたのじゃ。あの山からなら亀岡の盆地がよく見えるから、神様達はあそこで集われたのじゃなと、改めて昔話を思い出した。
そうそう、昭和の頃にも、人間に化けて船下りを楽しんだもんじゃが、最近は、無形民俗文化財として保津川船下り操船技術が指定もされ、たいそう有名になってのう。お客も中国語やら韓国語やら英語やらと太郎坊には分からぬ言葉が飛び交って、まるで外国の観光地で遊んでいる感じじゃったのう。景色だけは昔のままじゃがの。そうそう、岸を走るトロッコ列車に、最近は紅葉のライトアップとやらもあり、夜の保津峡もなかなか良い。で、「大江の酒呑童子」という者が列車内で愛想を振りまいておるという話じゃ。

| 樫船神社 | 2017/8/10assem | 4139−4146−1000 |
このお社は黒柄岳の東、高槻市樫田地区の大字田能という所に鎮座されておる神様の社じゃ。
亀岡の国作りに関わる神様で、樫船大明神とおっしゃる。樫の木でつくった舟を出して開削に大いに貢献した神様が祀られておる。
山の尾根の麓に一の鳥居、ずんずん上がっていくと二の鳥居、さらに奥まった所のお社に鎮座されておる。本殿には、舟の模型が安置されているという。
亀岡の国作りのお話の中で、黒柄岳で神様が集まったという話と、明神ケ岳で集まったという話がある。ちなみにこの樫船神社の北、亀岡と高槻の境に明神ケ岳があるのじゃ。

| 桑田神社 | 2012/10/30assem | 0530−0537−1000 |
請田さんの川向かいになる、篠町山本にある神社だが、ここも保津川開削に関わる大山咋神と市杵姫命が祀られておる。
ナマズの口から水が出ている手水舎で、清めてから、ゆるい坂を登っていくと、境内に赤い二匹のナマズの紋のノボリがある。
なんでナマズなのかと知りたいじゃろう?
昔、このあたりにおられた神様が保津川にはまっておぼれそうになった時、ナマズが出て来て助けたそうな。以来ナマズが神の使いとされたという話じゃ。
なんとも人間くさい神様じゃな。それで、このあたりの氏子さん達はナマズを食べない習慣が残っているらしい。おや、大井神社の鯉さんの話に似ているなあ。
そうそう、桑田神社のあるこの山本という集落は、川向こうの保津と並んで、保津川の水運の権利を時の権力者から得て、長らく筏材や丹波の産品を京の都へ運ぶ仕事の中心となった村なのじゃよ。

| 鍬山神社 | 2015/4/4assem | 0136−1000 |
このお社は保津川開削に使われたたくさんの鍬が山積みになったことから桑山大明神と呼ばれたと言うことじゃ。
ところで、お社が2つあるのが分かるじゃろう。1つの神様のための1つのお社というのが、普通じゃが、この神社には面白い話があってな。・・・
お隣さんのお社には、八幡様がおられるのだが、そのいきさつはじゃな・・・
八幡神様が光るものになって亀岡の矢田の部伏谷に降臨されたのだが、一時釈迦の姿をしておられた。そこである僧が七日七夜座禅をして身を清めて御前へ参ったら「わしは八幡神である」と言われたので鍬山神社へ合祀しようとしたら「わしは鍬山神と同居はいやだ」と言われた。そこで鍬山神社の傍らに八幡宮の社殿を新しく拵え,両社の間には堀を築いた。というお話。どうも八幡神と鍬山神は反りが合わなかったのじゃな。それなら、なんで別々の土地にお祀りしなかったのかしらんと天狗心に思うのだが、まあそれは昔ばなしということで・・・
ちなみに、桑山さんは白兎、八幡さんは鳩がそれぞれの使わしめで、今でも紋に使われておるぞ。

| 請田神社 | 2012/10/25assem | 9985−9901−1000 |
保津峡が始まる左岸の高い所に、請田神社がある。空からは鎮守の森に囲まれて見えにくいが、川沿いの細い道を辿っていくと、請田さんに着くのじゃ。
伝承では、保津峡開削の時にかかった費用を請け負ったので「請田」とも言われているようじゃ。または開拓の着工の,クワ入れを受けたので「請田」と呼ぶようになったとも聞く。川向こうの桑田神社と対でこの保津峡入り口を守っておられるという構図じゃな。
ちなみに、この神社を通りさらに進んでいくと、保津峡沿いに山の上に登って行き、水尾へ出る。保津と水尾をつなぐ重要な道でもあるのじゃ。

| 近世の社寺と街道 | 亀岡市史 |
今まで、色々と昔話をしてきたが、またまた亀岡市史という立派な書物に、付録でこの地図があったので地理的な感じをつかむのに掲げておいた。
お話に出てくる,黒柄岳や、保津峡開削に関わった神様を祀る神社などが書いてあるので、良く見ておくことじゃ。
まあ、この地図の範囲と京都市街や京北あたりが、わしのテリトリーと言ったところかのう。
至る所に愛宕山への道標があるのじゃ。その昔愛宕信仰の盛んな時期は「お伊勢へ七度、熊野へ三度 愛宕さんへは月参り」と言った具合に愛宕詣での列が絶えなんだ。いやいや今でも人気の高い山なのじゃ。

| 大井神社 | 2015/4/18 | 0899−1000 |
大堰川の左岸に鎮座されます大井の神様。
実は、この神様は.京都から保津川を遡って来られたのじゃ。
そのお話は、・・・大宝2年(702年)に京都市西京区の松尾大社から御井神と市杵島姫命が亀の背に乗って大堰川を遡上したが、八畳岩辺りから保津の急流で進めなくなったので鯉に乗り換え、亀岡市河原林町勝林島の在元淵にまで至った。それを見た工匠が社を建立したという(河原林町の大井神社)。その後、現在地に遷ったと伝えられる・・・というものじゃ。
空から見ると大井小学校と隣り合わせ。鎮守の森とお社、それから丹の池も見える。
左下に見える道は馬場で、10月16日の神幸祭で武者姿の氏子による「くらべ馬」が奉納されていたのじゃ。

| 大井神社 | 2015/4/18 | 0896assem−1000 |
大井神社の境内に入ると、まずは丹の池が眼に入る。亀岡盆地は太古、「丹の湖(にのうみ)」と呼ばれる湖だったが、それが無くなる時に当地に水が残り、旱魃でも枯れない「大いなる井戸」として永く残った・・・というのが池の伝承じゃ。大きな亀の背中から水が噴き出し、池に水をたたえている。この亀さんは、松尾神社の使いだろう。
神楽殿には鯉の彫り物、石碑には鯉の彫り物と鯉づくし。
このあたりの風習として、五月の鯉のぼりは揚げない、鯉は食べないといったものがある。これは鯉が神の使いであるということから敬い畏れてのこと。
そういえば桑田神社はナマズが神の使いだし、松尾大社は亀が神の使いだしということで、神社と動物の関係は興味深いことじゃ。

| 在元淵の大井神社 | 遡上道中 | 2016/7/30assem | 1645−1651−5500 |
松尾の神様が、桂川から保津峡を遡って亀岡に来られたという話がある。
初めは、松尾大社の神の使いの亀に乗って来られたが、写真の八畳岩あたりで水勢が強くなり遡上出来ないところを、鯉が現れて乗り換えなされたので無事に亀岡に来られたという話じゃ。
大井神社にある古い絵にはこの時の様子が描かれておる。
まあ、この話にはいろいろな伝承があってな。
神様は、いきなり大井神社で祀られた訳ではなく、一度河原林町の勝林島の在元淵で祀ってもらったのだが、夢枕に「もっと日当たりの良い高い土地へ行きたい」と申されたので大井村の大井神社に奉遷したという話をもとに解説しておる。

| 難所 八畳岩 | 2016/4/30 | 0314−0319−1000 |
神様が難儀された「八条岩」という所を上から見ると、ちょうど画面中央の瀬が細くなっている所が八畳岩あたりじゃ。今も岩盤が広く見えるな。今まで何回となく保津峡の開削工事が人の手でも行われて来たので、すっかり様子は変わってしまったがのう。昔は難所だったのじゃ。
また、画面の左下の細い瀬は「小鮎の滝」と言ってな。保津川下り最大の名所、高低差2mということじゃ。要は川幅を広くしてあると、この高低差がホントにがっくんとくるので、川幅を細めて水勢を増し一気に行くという智恵じゃの。今ならここでも亀は無理そうじゃ。
ところで、トラックや鉄道がない時代は、遠く京北あたりから木材を筏で流して来ていたんじゃが、それは空から見る天狗の見物としては豪快じゃったのう。何せ、保津や山本で急流用に組み換えられた12連の筏を一気に京の嵐山まで流しておったのじゃ。筏の船頭さんは必死の顔で、空にいる天狗なぞ眼に入る暇もなかったろうな。しぶきもかかって寒いのにご苦労なこっちゃ。それで木を運び終わったら、嵐山からとことこと山道を帰って来るという、まあ大変な仕事をしとられたんじゃ。

| 保津川峡谷の地名 | 保津自治会 |
保津峡は昔から筏や丹波からの産物が京に送られる重要な交通路じゃった。今みたいにトラックなぞないからのう。そこで、この急流を乗り切るために、重要なポイントに名前を付け、船頭達の安全管理に役立てたということだが、それはもう、たくさんの名前がついている。
どの場所の岩が増水で隠れたら危ないとか、そこの岩が顔を出すほど水が少ないと危ないとかいろいろあったじゃろうて。船頭達の共通理解のためには地名が必要じゃからな。
ところで、松尾の神様が鯉に乗り換えた場所は、八条岩あたり。
もう少しで亀岡盆地に入ろうというところだが、今でこそその名残は見えぬが、昔は大きな八畳ほどの岩があり、せき止められた水の勢いが強かったのじゃろう。
ちょっとゆっくりめの松尾さんの亀では手に負えなかったという訳だ。

| 松尾大社 | 2015/5/2 | 1761assem−1000 |
亀岡の大井神社の縁起に出てくる、松尾の神社じゃ。都の西、松尾山の麓に鎮座しておられる。松尾大社の伝説によると、大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の希望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山、荒子山(ああしやま)となった。そのおかげで丹波国は湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った・・・ということじゃ。
秦氏の一族はこのあたり一帯の開拓にあたったのではないかということらしく、さらに酒作りにも秀でた一族で、室町時代以降に「日本第一酒造神」と仰がれて来たのじゃ。境内には酒樽がずらりと並んでおるわい。亀に乗って亀岡へ行かれたと言う話は、丹波へも秦氏が開拓に出かけていったという事実が象徴されたものじゃないのかのう?
そうそう、例の亀さんはどこにおるかの?と境内を見渡すと、おるわおるわ。
特に神泉として手水舍には亀の口から水が出ておる。境内の裏手が神域の山並なので綺麗な水が湧くのじゃろう。酒造りには水は一番重要じゃからのう。それから天狗つながりでということで、ちょっと山際に行くと、「滝御前」というお社があって、滝がある。その横の岩盤に天狗が見えるということで紹介されておったわ。
うーむ、これはわしのような鳥形の天狗ではないぞ。まあ一度行ってみなされ。

| 松尾大社 | 2015/5/2 | 1758−1000 |
五月の、シイの花の咲き誇る松尾山。この季節は山の木々に勢いがあって元気が出るのう。たまの空の散歩もワクワクという感じじゃ。
さて、松尾大社の全容が分かるじゃろう。お社からすぐに桂川と言うことで、このお社には舟もおいてある。お祭に使う渡御用の舟じゃ。
松尾大社の神幸祭は、4月20日以後の日曜日に行われ、桂川を6基の神輿と唐櫃が渡る船渡御があり、氏子の安全を願いつつ平安時代から続けられておるということじゃ。

| 京北 慈眼寺 | 明智光秀座像 | 2015/2/23 | 7662assem−1000 |
この武将には見覚えがある。愛宕神社には何度も登って来てくじを引いたり、連歌会を催したりと何かと愛宕山にご縁のあるお方じゃな。
このお方は、亀山のお城を拠点に丹波攻略を進めておったのだが、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝愛宕山から京都市内を眺めておったら、本能寺から火の手が上がったのが見えたのじゃ。後で聞くと織田信長が、この明智光秀の謀反によって襲撃されたということじゃった。世に言う「本能寺の変」じゃな。なぜ、主君を討ったかはナゾじゃ。いろいろと説もあるが、あくまでも推測。じゃから歴史は面白い。
さて、この座像は京都市の京北周山の慈眼寺というお寺に祀られているものじゃが、逆賊の汚名を着せられた光秀の像を金具を外し刀も外し、墨塗りにすることで、破壊を免れたという話が伝わっておる。文武両道で治世にも秀でたお方じゃったそうな。写真の右腕あたりにうっすらと桔梗紋が見えるかな。
光秀というお方の肖像は亀岡のバスの絵で良く見かけるが、この渋い像もなかなかのもんじゃな。

| 光秀ゆかりの城跡 | 2016/4/30assem | 0065−0070−5500 |
光秀さんは、土岐の出らしいが、安土城の信長さんに仕えておった。
琵琶湖の水面に立ち上がる安土山に立派な天守があったそうな。今でこそ干拓でお城の周りは田圃じゃが、当時は安土城の周りは湖じゃった。
さて、坂本のお城の時代は、後ろに控える比叡山と戦うことになる。
亀岡では、丹波統治の拠点として亀山城を築城されたし、現在の京北に周山城という山城を建てなすった。着々と丹波の平定を進めておったのじゃ。
昨今、下界の亀岡市では明智光秀を題材に「大河ドラマ」をつくろうと運動しておるようじゃが、時代はアンチヒーロー、ヒーローだけが物語になるのはもう古い。太郎坊も応援しとるよ。わしも大河ドラマに出たいのう・・・
そうそう、5月に市役所前で鉄砲の音がすると言うので飛んで見に行くと、光秀さんの行列が出ておった。毎年盛大にやっとるようじゃな。

| 水尾 | 2016/4/30 | 0645-0652-1200 |
光秀さんは、よう愛宕山に登って来なった。その時に良く通ったのがこの水尾という村じゃ。亀山のお城から大堰川を渡って保津の村へ、保津の「明智越え」と言うところから山を登り水尾へ、そして愛宕山頂上へというおなじみのコースで来なすった。
今はこの道は狭い。、当時はもっと広かったように思うが、山道は手入れせなんだら、森がどんどん迫ってきて狭くなるのじゃ。
こんなきつい傾斜の所で、柚子がさかんに作られているが、何かと天皇さんとのご縁があって、14世紀初頭の花園天皇が水尾の地に柚子を植えたとされているし、清和天皇は水尾の地を終焉の地と考え、ここ水尾の清和天皇陵で眠っておられる。
水尾名物、冬は柚子風呂、鳥すきで水尾を楽しんでみてはいかがかのう?

| 宇津城跡 | 2015/10/15 | 0074assem−1000 |
光秀さんの丹波平定の折、宇津氏は光秀に抵抗したものの、天正七年、ついに光秀の大軍によって宇津氏は滅亡したという話じゃ。
愛宕山からも天狗にとってはすぐの場所。空から見ると山のてっぺんの宇津城跡は杉や桧ではないのう。楓かな。わずかに色づいておるわい。
この宇津の地を見下ろす形の城の構え、昔の山城の典型というところじゃ。
山際には八幡神社があるので、行ってみなされ。

| 山崎の合戦場 | 2014/7/26 | 0382-0390assem−1000 |
南に羽柴勢、北に明智勢と夕刻より始まった戦は、結局羽柴勢の勝利。天狗は手を出さず高見の見物ではあるが、何度見てもむごいものじゃ、何度こういう戦があったことか。戦国の世とはまさにこの頃の話じゃ。
で、光秀さんは坂本のお城へ逃げ帰る途中山科の小栗栖で襲撃されて命を落としたということで、今も「明智藪」としてその場所に碑が建っておるな。
亀岡や京都で「明智光秀」にちなむ所は山ほどある。歴史ファンなら興味が涌くところかな。

| 角倉了以像 | 2017/8/8 | 3522assem−1000 |
このお方は、亀岡でも,京都でもいや全国でも有名なお方じゃ。安土桃山時代の海外貿易家,土木事業家で、豊臣秀吉や徳川氏から朱印状をもらって安南国(ベトナム)に朱印船を派遣し巨利を得た豪商じゃ。
また治水にもたけて保津峡の開削、富士川や天竜川、京都では高瀬川などの開削を行い,これらの河川を利用しての通運で稼いだお方じゃ。商業の流通の基礎を作ったと言ってもよいかのう。
京都市内でも何カ所かで出会うことが出来るのじゃが、嵐山は大非閣や亀山公園で会えるし、京都市内では高瀬川沿いの元立誠小学校の玄関横に顕彰碑がある。
人間に化けてちょっと木屋町に呑みに行った時、懐かしい顔に出会うのもまた良しじゃ。

| 新緑の保津峡 | 水尾の方角から | 2016/4/30 | 0699−0720−5500 |
愛宕山から南へ少し飛び出すだけ、この景色を見ることが出来るのは、やっぱり天狗の特権かのう・・!
春の4月も終わりともなると、若葉の萌える様子がすばらしい色彩美を生み出す。
佐々里峠から左京や右京の山々や、園部・日吉など広大な面積の水が、保津峡を通りこの嵐山から京都市内へ流れ、最後は大阪湾に流れ込む。そして豊かな漁業資源をささえておるのじゃ。くれぐれも森をいい加減にするで無いぞ。回り回ってうまい魚にありつけなくなるぞ。
最近山中をのぞいてみると、手入れができておらん所もたくさんある。これは天狗だけではどうにもならんことじゃ。智恵を出しおうてなんとかせねばな。

| 保津川開削図 | 慈舟山 瑞泉寺蔵 | 江戸時代 |
大昔の神様達は、それはもう人間の考えられないような力で開削をやってこられたが、人間はそうはいかない。
角倉了以ゆかりの京都木屋町三条下ル「瑞泉寺」さんには、こんな図絵が残されていたので、無理を言って借りてきたのじゃ。
よく見ると、岩の上で火を焚き石を割る、大勢で巨岩を引っ張る、こつこつと石を割るなど、水に濡れながらの大変な工事をしておる。了以さんは、おなじみの出で立ちで指揮を執るという現場人間じゃ。こういう難工事を通して今まで難所だった箇所を川作して商品の流通路を整備して来たんじゃ。
しかし、川は生き物でな。大雨が降ると色々な所に不具合が出来てくる。常のメンテナンスっちゅうがやつが大事なんじゃな。今は保津川の遊船が下っておるが,やっぱり船頭さん達の日頃のメンテナンス(川作)は大雨の度に危ない目をしながらやっとるわい。気をつけてやってくれよ。

| 京都三条あたり | 1529assem | 2017/9/29−1000 |
天狗も愛宕の山におるだけではつまらんので、たまには天狗仲間と人間に化けて京都の町へ繰り出すこともある。
さっき紹介した角倉了以はんは京都市内でも何軒か家を持っておったので、なんやあちこちでゆかりの地があるというわけじゃ。
まあ、木屋町というたら、まずは一之舟入かのう。邸宅跡は今はがんこ高瀬川二条苑になっておる。まずはここで一杯やって、源流庭園を見物というのがお約束というところじゃな。
次に天狗仲間と来たときは、舟入の横の「花千代」さんか「一之舟入」さんでどうかいな。
待てよ?嵐山で角倉了以邸宅跡の「花の家」っちゅうものええのう。
え?比良山次郎坊は比良山に帰るのに遠いって?タクシーに乗るわけでもない、ちゃっと飛んで帰ればええがな。

| 保津川下り | 小鮎の瀧あたり | 2016/4/30 | 0262−1000 |
この保津川には、昔は京北山国あたりから切り出した材木の筏が流れておった。そのうち、丹波の旨いものやら柴やら炭やら舟で運ぶようになった。その頃は、舟で嵐山まで行って荷を下ろして一服したら、ぼちぼち綱で舟を引き上げながら亀岡まで綱道をつたって船上げしておったのう。下りはちょちょいじゃが、登りは大変じゃ。
そのうち、汽車やら車やらが荷物を運び出すと、とたんに舟の荷がなくなってのう。船頭さん達は「遊船」というかたちで川を下り始めたんじゃ。
大正の頃などルーマニアやらイギリスやらの皇族さんが乗ったりして、そらもう最高のおもてなしじゃったな。
今は待合所も乗船場も立派になって、外国の人らもぎょうさんおいでじゃ。わしもたまには人間に化けて嵐山まで行くのじゃが、「ここは日本かい?」というほど異国の言葉が飛び交っておる。船頭さんも色々言葉を覚えないかんし、大変じゃのう。

| 愛宕鉄道 | 愛宕山鉄道沿線案内図 | 昭和初期 |
昭和の初め、なんと愛宕山にケーブル線が出来たのじゃ。嵐山から電車でごろごろ、清滝から索道線でごろごろと、ちょちょいのちょいで愛宕山へ人が流れ込んで来たことがある。今まで、ぼちぼち歩いて上がる登山客しかおらんかったが、それはもう、観光するやらスキーをするやらと、老いも若きもわらわらと上がって来よった。清滝からケーブルで11分で到着とか言うたのう!
「地上の楽園」とか言うて、ホテルやら飛行塔やらもうそれは遊園地。
しかし、世は第二次世界大戦へと向かう中、とうとう不要不急の娯楽設備ということで世の中金属供出、贅沢は敵!という中、昭和19年、敗戦にむけて転がり出す時代にとうとう閉園してしもうた。
空を飛ぶのは天狗と旅客機だけでいい。物騒な戦闘機やら爆撃機やらが愛宕山の上を飛ぶ時代は堪忍じゃ。

| 清滝 | 愛宕山登山口 | 2014/7/26 | 0514−1000 |
ここが清滝じゃ。行ってみるとケーブル跡の看板もある。今では遠足やハイキング、愛宕登山の基地といった所かのう。ケーブルのあった時代は清滝遊園地というのがあって、猿山もあった。
7月31日の千日詣りの日は、それはもう大変な人が通る場所じゃ。夜通し明るい電球の中、「お上りやす」「お下りやす」のかけ声が頂上まで続くのじゃ。この日ばかりは天狗もおちおち寝ておられん。

| 愛宕鉄道ケーブル山頂駅跡 | 2015/11/5assem | 0828−1000 |
これが愛宕ケーブルの山頂駅跡じゃ。索道の基礎なども残っているらしいが、天狗は特に興味も無いので見に行かぬ。たまに好きな輩がこういう廃墟巡りということで出向くと聞いておる。わしのように愛宕山を知り尽くしたものなら良いがな。安全にハイキングを楽しんでもらいたいものじゃ。
清滝の試峠を抜けるトンネル昔は電車が通っていた所。電車1両分の大きさじゃから狭いし暗い。天狗でも出そうな雰囲気じゃ。(笑)

| 愛宕スキー場 | 2013/3/14assem | 5918−5928−5500 |
愛宕神社の北の方のなだらかな所にスキー場跡がある。
ケーブルで上がってきても、スキー担いでかなり歩かねばならんかったようじゃが、何事も遊びとなると気合いも入るというものじゃ。ぎょうさんのスキーヤーがやって来よった。
昔は雪も多かったんで、京都でもスキーが出来たのじゃな。当時は関西屈指のスキー場ということで賑わっておったの。
最近はあんまり雪も降らんしスキー場も雪不足。鞍馬山僧正坊のやつも、鞍馬の奥の花脊スキー場も雪不足じゃと言っておったしな。

| 7年前の千歳 | 圃場整備ビフォーアフター | 2006/5/21 | 4584−1000 |
平成に入ってからなんや、川東の田圃がざわついておったので、注意深く見ておったが、おやおや?
田圃の土を真ん中にうずたかく積み上げたと思ったら、今度は前と違う形に土を伸ばしていきよった。
前は、ずっと昔から条里制とかいう制度でぼんやりした正方形の田畑が並んでおった。正方形の中は色々な形で、複雑じゃが味のある造型じゃったのう。
ところが新しく出来たのは、なんとまあびしーッと直線の効いた形になってきた。
圃場整備というものらしい。平成の大事業じゃ。
この写真は今はやりの「ビフォーアフター」良く分かるじゃろう。亀岡川東の田圃が変わっていく姿じゃ。河原林は終了、馬路はまさに整備中、千歳はまだ昔のままじゃ。

| 亀岡駅前 | 2010/4/25 | 8759−8761−1000 |
菜の花の咲く亀岡駅前の様子じゃ。
なかなか市街地に届かない保津橋と保津川遊船の待合室は工事中じゃ。今から7年前の様子じゃ。
ここに大規模なスポーツ施設が出来るということで、二転三転しながらも話が進み始めた。

| 亀岡駅前 | 2017/5/23 | 0700-0707-1000 |
今年5月の亀岡駅前の様子。
随分工事が進んだようだが、天狗の目にはまだ、アリーナという部分がどこになるのかまだ分からぬ。
数年前の台風で亀岡駅ホームまで水につかったことから、だいぶかさ上げしている様子が分かるぞ。
どうもJR線の地下を潜ってアリーナに接続する道路ができそうな感じじゃな。地域活性大いに結構。


