亀岡の街道筋 2015/11
今回は、亀岡の古道、すなわち「山陰道」、「篠山道」、「愛宕道」、「西国三十三所巡礼の道」、「妙見道」などの街道に焦点をあて、空からの俯瞰と地上写真を関連させることを通して、ふるさと亀岡の歴史と魅力を再発見していこうと企画いたしました。
いわゆる旧街道を空から見ると、現在の直線的かつ合理的な道筋とは違い、様々な要因で曲がりくねり、その両側に集落が広がっているのが分かります。その動線一つ一つに必然があるはずで、なぜこのルートなのかを、道ばたに佇む道標を辿りながら想像を膨らませていくと、古の人たちの生活が見えてくるのではないかと思います。
参考資料として、新修亀岡史の本文編二巻の付図1を活用させていただきました。比較資料としてご覧下さい。時間のフィルターを通しながら、古図も参考に400年ほどタイムスリップをしてみましょう。
今回の企画は「京から丹波へ山陰古道」(石田康男氏著)や「盥魚庭落葉」(光永尚氏著)を参考にしながら取材をすすめました。亀岡を2003年に撮影し始めてから12年、たった12年でも特に川東は劇的な変化が見られます。どんどん変化していくであろう亀岡を今後も撮影していきたく思っております。
また取材にあたりまして、千歳町自治会、丹波国分寺、亀岡市教育委員会、亀岡市文化資料館をはじめ、個人・各団体・地元の方のご理解、ご協力をいただきました。有り難うございました。
それでは老の坂を越え、亀岡に向けて旅に出ましょう。どうぞごゆっくりご覧下さい。

江戸時代の老の坂峠 拾遺都名所図会 江戸時代 国際日本文化センター蔵 老の坂図
曲がりくねった峠の道を、荷を乗せた牛を曳く人、杖を持った女の人たち、天秤棒を持った人たちと賑わう様子が描かれ、峠の茶屋も見える。山城、丹波の国境の石も描かれている。左側の集落は亀岡の篠村であろうか。・・・・・・・・・・・・・・・
『拾遺都名所図会』は『都名所図会』の後編として天明七(1787)年秋に刊行されたもので、前編と同じく本文は京都の俳諧師秋里籬島が著し、図版は大坂の絵師竹原春朝斎が描いた墨摺五冊本である。なお、本データベースに用いた『拾遺都名所図会』は大坂の書林河内屋から天明七年秋に板行された新版で、江戸でも同時に刊行されたものである。(国際日本文化研究センターHPより)

老の坂 2014/7/26
京都側から老の坂を俯瞰する。画面左下は京都縦貫道老の坂トンネル入り口、縦貫道下り線の左に見えるのが山陰古道で、そのまま谷筋を抜けていく。画面右側は国道9号線である。徒歩に適した最短最良の峠道、自動車を通すための適度な斜度を持つ土地のトレースの9号線、山沿いを高速で抜ける直線的な高速道路とそれぞれのコンセプトの対比がおもしろい。

京から亀山へ 山陰古道 2014/7/26
王子から篠町の町中へ続く山陰古道。夕陽ヶ丘団地の開発もかなり進み、新しい住宅地となってきた。

老の坂峠 従是東山城国道標 首塚大明神 2012/10/30 etc.
老の坂旧道のほぼ峠あたりにある、石碑と首塚大明神。子安地蔵は現在の国道9号線沿い、峠を京都側に下ったすぐの場所にある。峠の首塚大明神には酒呑童子と源頼光の物語が石碑に刻んである。
桑下漫録の老の坂の図と、新修亀岡史の付図と見比べると、子安地蔵の位置がかわっていることが分かる。老の坂峠は現在は鬱蒼とした森となっているが、貝原益軒は「峠より京都及び山城諸残山、能見えて佳景也」(西北紀行)と書き留め絶景の場所であったようだ。

山陰道 老ノ坂から王子 2014/7/26
九号線からは見えない谷を空からのぞき込むと、そこには複雑な形の美しい棚田が見える。
古山陰道はこの谷に流れる鵜の川沿いに、篠町山本を通り保津町、河原林町を通っていたのではとされている。時代が新しくなるごとに、山手に上がっていく幹線道路の位置関係がおもしろい。
老の坂峠を下った旧道はしばらく九号線ぞいに下り、S字カーブの位置から谷に降りていく。実際に歩いてみると、九号線や縦貫道の喧噪は消え、いつしかタイムスリップしたような時間と空間に不思議な感じがする。棚田沿いの細い街道を歩いていくと、やがて王子神社のところで山陰道に合流する。

篠町 街道筋の町並み 2014/7/6
京から老の坂を越え、山陰道が続く様子がわかる。篠町馬堀で東へ進路を変え、城下町に向かう。画面中央付近の森が篠村八幡宮、足利尊氏旗揚げの地として有名な神社である。

亀山城跡 山陰道城下へ入る 2015/4/18
南西方向から見た亀山城下町の様子。京口より入った山陰道は、城下で折れ曲がりながら北西へ向かいます。
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明智光秀は、天正5年(1577)頃、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城しました。保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれましたが、正確な史料が残っていないため全容は分かっていません。光秀は近隣の村から人を呼び寄せ、城下町を形成しました。天正8年(1580)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2年後に「本能寺の変」が起こります。
亀山城はその後、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、慶長15年(1610)岡部長盛の代に天下普請により近世城郭としての亀山城が完成します。この築城にあたっては城づくりの名手・藤堂高虎が縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。現存する古写真は、明治初期に撮影されたものです。 (亀岡市観光協会HPより)

亀山五口
江戸時代の亀岡(亀山城下)には、街道の入り口となる口が5つありました。城下町の東から「京口」、「穴太口」、「清水口」、「丹後口」、「篠山口」(亀山口)です。
「京口」は三宅町の年谷川に架かる三宅橋(京口橋)あたり。「穴太口」は紺屋町の元秋葉神社の北のあたりで、左へ行けば穴太寺、右が山陰道の分岐になります。「清水口」は、安町の曽我谷川の常磐橋の東あたりで、昔は愛宕道がここで山陰道と交わっていたようです。当時はここに清水が湧いていて、愛宕山から来た人がここで喉を潤したことから「清水口」と言われたそうです。 「丹後口」は、丹後、但馬へ北に進む「丹後道」と、まっすぐ西に篠山街道との分岐点です。常盤橋を渡り河原町の「一つ目」信号のある交差点ですね。そして「篠山口」、篠山街道を進み余部町の端のあたりで、篠山から来ると亀山城下町の入り口「亀山口」となります。 (エンジョイ亀岡 亀岡の街道HPより)

大井の町 秋の風景 2015/9/21
まさにお彼岸という景色である。田圃の畦に彼岸花が咲き誇っている様子が上空からも確認できる。生育状態の違う稲や刈り取りの終わった田のモザイク模様が実に美しい。大井町並河の集落を通る山陰古道が、微妙な曲線を描きながら大成中学校横に向かっている様子が分かる。街道は大井神社の脇を通るが、寄り道して少し境内をのぞいてみると、鯉が祀られ、池には亀の石像がある。 祭神の木股命が、京から亀に乗って保津峡へこられたが、保津川の強い水勢のため鯉に乗り換え上がってこられたと伝えられているということにちなむ。この地域ではでは鯉を神の使いと考えられ、鯉を食べず、鯉のぼりもあげない風習が伝わってる。

千代川・大井の山陰道 2014/7/6
大井の町並みを抜けた旧街道は西にカーブして9号線と交差し北上する。室町時代に造られた寅天堰から流れてくる水路沿いに八木に向かう。

愛宕道、山陰道交差 千代川の風景 2015/5/17
千代川の市街地を9号線と旧街道が平行に進む様子が分かる。北の庄からの愛宕道は千原で山陰道と交差し、大堰川へ出る。この交差点東側に「愛宕道標」が建っている。月読橋西詰北側の堤防にも「愛宕灯籠」があり、このあたり大堰川を渡る橋や渡しがあったことを忍ばせる。対岸の馬路町三辻の堤防にも「愛宕道標」があり、いにしえの人々の往来する姿を想像するのもおもしろい。古書に出てくる「たかそとわ」(高卒塔婆)は場所を移され小松寺にある。

千歳町 国分区と千歳区 七谷川の道 2015/5/2
このあたりは愛宕山麓から流れ出した七つの谷の水を集めたという「七谷川」の扇状地である。この谷にも愛宕山への道があり、愛宕巡礼道の北舎峠や出雲峠から登ってきた旅人たちは一ノ橋で合流し、原村(現在の京都市右京区嵯峨樒原)へ向かう。

千年山 北舎、出雲の峠道 2015/7/26
北舎峠から愛宕道を見通すと、結構まっすぐであることに驚く。ひたすら最短距離を取りながら峠を越えていく様子が良く分かる。巡礼者達は、峠を越える前に、「出雲さん」で真名井の水で喉を潤し参拝した後、気を引き締めて愛宕山を目指したのであろう。

千歳車塚古墳 春の野焼き 2015/3/22
千歳町に入ると、愛宕巡礼道の横に千歳車塚古墳が見えてくる。地上から見る分には、ちょっとした小山の感じだが、上空から見ると見事な前方後円墳である。毎年、春先には消防団による野焼きが実施されるが、この日は今年3回目のチャレンジだったそうである。滅多にないチャンスに興奮しながら撮影した。折からの南西の強い風にあおられて、約7分で墳墓が炭色となった。・・・・・・・・・
後円部径41m・高さ7.5m 前方部幅45.5m・高さ6m 三段築成くびれ部に造出しがある。 周囲の農地に周濠の痕跡が残る。古墳の外形と出土した埴輪などから5世紀代の築造と推定されている。2003年の調査で、二重周濠の一部が確認され、埴輪、葺石も確認されたが、詳細は不明
(亀岡市HPより)

千歳 条里制のなごりの残る田園 2004/6/5 etc
2008年に大規模な圃場整備が行われる以前の千歳や馬路の様子である。馬路の集落の中を通る愛宕巡礼道から車塚古墳、千歳の出雲、北舎峠までたどっていただきたい。
かつては、石垣が巡らされた田の畦には秋になると見事な彼岸花が咲き誇り、ハイカーや写真家たちがたくさん訪れていた。整備前には巡礼道脇に愛宕道標が立てられていたが現在は亀岡市文化資料館の庭に一時保管されている。「右 愛宕道 左 丹波一宮」とある。
7世紀の半ばに始まった公地公民制により、亀岡盆地でも条里制が行なわれ、平地のほとんどが区画され条里に基づいた開墾がなされたが、その名残が少し昔まで残されていた。

行者山上空から見る川東のパノラマ 2015/5/2
行者山上空へ行くと、愛宕山への道、京都への道、篠山への道、丹後への道と一気に見渡すことができる。
千原から大堰川をわたり、馬路町三ツ辻を通り、馬路の集落の中央部、車塚古墳と続く小道をたどると、それが愛宕巡礼道である。春の亀岡盆地は、ビール麦の緑と田起しの終わった田とのコントラストがとても美しい。

大堰川を渡る 愛宕道は川東の馬路へ 2015/9/21他
写真に赤マークが付いているところが、それぞれの道標などが建っている場所である。桑下漫録の挿入図と、新修亀岡史付図、上空からの写真を見比べながらご覧ください。

北ノ庄から千原へ 丹波国府跡推定地 2015/5/17
画面奥に半国山、宮前町の谷筋を通り、北ノ庄,千原と愛宕巡礼道は続いている。画面中央部の田畑区域は、丹波国府があったのではと推定される地域である。条里制は残っているが、変則な区画が見られ、かつての国府関係の建物との関係かと想像が膨らむ。画面下部中央の藤越神社には、野を司る神様が祀られている。

宮前町神前 谷筋を通る愛宕巡礼道 2015/5/2
北ノ庄上空から西を俯瞰する写真である。遠くは半国山の麓を通る篠山道が見える。

篠山道 東本梅町 宮前町 2015/5/2
画面左に半国山、北西方向に向かう篠山道をたどってみよう。
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半国山
亀岡市の西部に位置する744.2mの山。丹波の国が山頂から半分見えることから半国山と名付けられたとされている。その美しい姿から「丹波富士」とも呼ばれる。愛宕山、嵐山、小塩山、ポンポン山、妙見山、六甲山と眺めることができ、条件が良ければ大阪湾まで望める。
(亀岡市観光協会HPより)。

篠山道 妙見道 本梅町 2015/5/2
本梅町の春の様子。のどかな里山の風景が広がる。画面左は池田へ通じる街道、半国山を回り込むように篠山に抜ける篠山道の様子がよくわかる。蓬莱山頂より琵琶湖を望む

国道477号 本梅町の妙見道 2015/5/2
画面奥は大阪池田方面、谷ぞいの集落をつなぎながら477号線が池田まで通じている。能勢の妙見さんへ行くにも、このルートとなる。画面中央下477号線右側の学校は本梅小学校である。

湯ノ花温泉郷の谷 篠山道 2015/5/2
画面手前の建物がホテル渓山閣である。湯ノ花の谷筋を東方向から本梅の方を見ての俯瞰である。
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京の奥座敷「湯の花温泉」。亀岡市の中心部から西へ約7キロの静かな山あいにある温泉。はるか戦国時代、傷ついた武将たちが刀傷を癒したとの伝説を残す古い温泉郷です。ひなびた山峡のいで湯を彩る澄んだ空気と四季折々の自然の景観。しっとり落ち着いた佇まいは、都会では味わえない素朴な風情が漂っています。 穴太寺、?田野神社、神蔵寺、苗秀寺・・・、歴史と伝説が生きる数々の史跡に往時を偲び、自然の恵みをそのまま食卓にのせたこころ暖まる味のもてなしに、心からくつろぎを感じます。(亀岡市観光協会HPより)

湯ノ花温泉郷の谷 篠山道は亀山へ 2015/5/2
湯ノ花の谷を西から俯瞰した写真である。画面下部街道沿いの建物は保津川亭。昔、街道筋に立ち観光客を出迎えてくれていた鬼たちはどこへ行ったのだろう・・。・・・・・・・・・・・・
千年の都、京都の奥座敷「湯の花温泉」。静かな山あいにある湯の花温泉は、はるか戦国時代、傷ついた武将たちが、刀傷を癒したとの伝説を残す古い温泉郷です。また湯の花の湯は伝説に、この地に産土する「桜石」の霊力で退治された鬼の涙があふれ出たものといわれ、鬼退治の桜石は、節分の豆のルーツとなり鬼が泣いた湯の花の湯は、万病の治癒と除災除厄の湯として人々にながく敬慕されてきました。(京都・烟河HPより)

ひえ田野を通る篠山道 丁塚山上空から 20154/18
湯の花温泉郷から平野部に出てきた篠山道が亀山城下の篠山口へ向かう様子が分かる。ひえ田野の田はまだ条里制の名残が残っており、緩やかな正方形が美しい。画面右側では城下の穴太口から、穴太寺へ向かう道をたどることができる。

篠山道 東から俯瞰 2015/4/18
篠山道を運動公園上空あたりから俯瞰している。街道沿いに立ち並ぶ集落が湯ノ花に向けて続く風景は「街道沿いの街」の典型である。

山道 西から俯瞰 2015/4/18
山道を運動公園上空あたりから俯瞰している。篠山道を亀山城下河原町まで辿ると、曽我谷川沿いに保津へ続く巡礼道を見つけることができる。

余部の街 篠山道、山陰古道、巡礼道 2015/5/17
城下町西部と余部、大井あたりの風景である。湯ノ花からの篠山街道は東へと進み篠山口へ入る。宇津根から9号線に入る道路は南西へ延伸し亀岡インターへ接続される計画と聞いているが、いつの時代も時代を反映した道路が作られていく。この付近もかつての条里制の名残がある地域だが、また数年後は整備され、違った風景となるのだろう。犬飼川沿いの大井町では大規模な開発が進んでいる。数年前まで田圃であったところである。

巡礼道 穴太寺への道 2015/4/18
西山の平和台公園を見下ろす構図で、画面横に縦貫道が走っている。
善峰寺の参拝を終えた巡礼者は、山を越え鍬山神社へ、そしてちょうど縦貫道に沿うように巡礼道を歩き、重利に降りてくる。ここから西へ穴太寺、北東へ向いて亀山城下へと進路を決めることになる。

田の中に立つ 「右よしミね道」「左かめ山・京道」 2015/22
曽我部町重利の風の口から農道に入り「巡礼橋」を渡ると、走田神社の南の田んぼの真ん中にひときわ大きな道標がある。亀岡の道標の中でも一番大きいものらしい。「右よしミね道」「左かめ山・京道」と刻まれた道標はこの場所が分岐点であったことを示している。
曽我谷川の改修に伴い、あぜ道に道標が残されたということである。田植え中の方のご厚意で田植機に乗せていただいき撮影した。かつての道はこの田の中を通っていたと聞く。下部写真、画面左側の木立は走田神社の鎮守の森である。

穴太寺 西国三十三カ所第二十一番札所 2015/7/24
南からまっすぐに穴太寺まで参道が続く。亀岡市内にたくさんある道標が目指す目的地である。穴太寺は巡礼寺らしく、千社札が至る所に貼ってあり賑やかだ。本堂・多宝塔などの建物とすばらしい日本庭園にしばらく目を癒す。
本堂には京都府指定文化財の鎌倉時代の作とされる木彫釈迦涅槃像が安置され、体の部分をさわると参拝者の病気がよくなると伝えられている。

穴太寺 境内点描 2015/4/2
宝徳2年(1450年)成立の『穴太寺観音縁起』によれば、慶雲2年(705年)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる。
穴太寺の聖観音像は「身代わり観音」の伝説で知られ、この伝説が『今昔物語集』に取り上げられていることから、平安時代末期には観音霊場として当寺が知られていたことがわかる。『今昔物語集』所収の説話によると、昔、丹波国桑田郡の郡司をしていた男は、都の仏師に依頼して聖観音像を造り、仏師には褒美として自分の大切にしていた名馬を与えた。しかし、与えた名馬が惜しくなった男は、家来に命じて仏師を弓矢で射て殺してしまった。ところが、後で確認すると仏師は健在で、観音像の胸に矢が刺さっていた。改心した男は仏道を信じるようになったという。
同様の説話は『扶桑略記』にもあるが、ここでは男の名が「宇治宮成」、仏師の名が「感世」とされている。(ウィキペディアより)

善嶺寺から亀岡遠望 大原野からの俯瞰 2015/7/24
京都市内の大原野まで飛び、眼下に善峰寺を見つつ、巡礼道を空撮する。西国三十三所第20番札所であり、観音信仰、遊龍の松、桜・あじさい・秋明菊・紅葉など季節の彩りも豊かである。
西山中腹にあるので京都市内の眺望がすばらしいのも特徴であるが、逆に京都市内からも容易に本寺を見つけることができる。

善峯寺 境内点描 2015/5/5
「善峯寺」という寺院は全国でも1つしかないと言われています。寺号の由来はいくつか伝えられています。
後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜されました。干ばつの時、源算上人の祈りで、龍王が雨を西山の峰より降らした奇瑞によって、後冷泉天皇より「良峯」の勅額を賜りました。後鳥羽天皇より、慈鎮和尚ご住山の時に「善峯寺」の勅額宸筆を賜りました。
「本名は阿知坂なりしを改めて善峯山と名附らる諸善奉行の教を流布せんためなり」とあります。※尚、寺号「峯」の字は歴史上「峰」「峯」ともに使われており、現在当山では便宜上「峯」に統一しています。(善嶺寺HPより

3月の曽我部 穴太寺から法貴峠へ 2015/3/27
条里制の名残が残る曽我部の様子。緩やかな傾斜の等高線と条理の正方形がおりなす造形が大変おもしろい。穴太寺から、犬飼、法貴へと続く街道は九十九折りを上って大阪池田まで通じる妙見道である。

京都市内から嵯峨、愛宕山へ 京都市内北西部の俯瞰 2015/11/5
良く晴れた秋の空を、東側から見る愛宕山の風景を押さえるべく、嵯峨上空までフライトする。京都観光後、愛宕山へ向かい参拝後、亀山城下に入り穴太寺参拝、善嶺寺へ向かうという、いわゆる「逆打ち」と呼ばれるルートを辿ってみよう。

嵯峨からの愛宕道散策 2015etc.
画面左下の嵯峨清涼寺から愛宕山頂まで、道なりに見る道標や風景を並べてみました。気持ちだけ、愛宕詣はいかがでしょう。

嵯峨 愛宕山への道 2015/5/2
嵐山の烏ヶ岳上空あたりからの、嵯峨・愛宕山の眺め。新緑の爽やかな風景が広がる。
京都市内の観光を終えた巡礼の旅は愛宕山へと向かっていく。嵯峨の清涼寺から「愛宕道」を辿ってみよう。

保津 愛宕谷の道 2015/9/21
愛宕山から亀岡方面への道もたくさんあるが、その一つに保津に下りてくるものもある。愛宕谷林道や、明智越えである。この位置から保津の町を見ると、大堰川にかかる保津橋の東詰には愛宕灯籠がありは愛宕山への参道という感じがするし、金比羅さんの祀ってある牛松山やその奥に見える愛宕山といい、神域の入り口の町といった風景である。

保津峡と愛宕山 京と亀山を結ぶ 2014/10/19
老の坂上空あたりからの景色。蛇行する保津川が亀岡盆地と京都盆地をつなぐ様がよく分かる。画面中央上部が愛宕山、そこから手前に伸びる谷沿いに水尾、JR線が谷ひだを突き抜けながらほぼまっすぐに亀岡を目指している。明智越え、愛宕谷林道、唐櫃越えなど、この山間部を京へ向かう道を辿ってみましょう。

新修亀岡史本文編二巻 付図1 参考資料
