亀岡の千歳といふところ      2013/11

 この展示は、千歳町の三郎ヶ岳パラグライダーテイクオフ場から発航し、上昇気流を乗り継ぎながら撮影したものです。
 今回は、ここ丹波國一之宮出雲大神宮をはじめ、千歳車塚古墳、吉祥山極楽寺を取材対象とした「第51回 小中学生記者の文化財取材コンクール」に合わせ、出雲大神宮のご後援をいただきながら開催させていただきました。
 生徒さんたちには取材対象の風景を空から見ることで、3次元的に対象を捉えより深い理解をしていただこうと、高空からの鳥瞰写真も含め、時間軸も意識した展示とさせていただきました。
 千歳は圃場整備が川東地区として最後になされた地域で、私の撮影したものとしては比較的昔の様子が残されています。現在の直線的な田の区画と条里制の名残の区画を比較対象するのもおもしろいことと思います。
 現在、亀岡の三郎ヶ岳パラグライダーテイクオフ場への林道が、先の台風被害にあいフライトができない状況にあります。そこで10月に現地説明会のあった「出雲遺跡」についてはラジコンの飛行機を使って撮影した写真も加えました。
 今回の展示に当たりましては亀岡市文化資料館のご協力をはじめ、各団体のご支援や地元の方のご理解とご協力をいただきました。たいへんありがとうございました。
 それでは亀岡盆地東側、千年山麓千歳の文化財や遺跡を空から散歩していただけましたら幸いです。ごゆっくりご覧下さい。

 

 

 

出雲大神宮の紅葉 神池から 2010/11/17

 「出雲さん」横の道路際から神池越しの境内と御影山ご神体の紅葉。穏やかな池の水面に映る景色も美しい。

亀岡盆地東側の鳥瞰 馬路町上空から東方面を望む 2011/5/5

 馬路町上空から東側の亀岡盆地、愛宕山、京都市内、遠くは京北まで見通した風景である。いろいろな遺跡や文化財の位置関係がよく分かる。
遠く京北のv字谷が見えているが、このあたりに降った雨は上桂川となりm日吉ダムを通り八木・亀岡盆地を大堰川として流れ、保津峡へ流れ込む。愛宕山の西側斜面に降った雨も集めて京都市内へ流れ込む。
水の豊かな土地で、古来から人々の住む盆地であり、地上に残る遺跡はもちろん、発掘調査により遺跡もたくさんあることが確認されている。
今回の展示は、千年山(三郎ヶ岳から南へ延びる山並み)麓の文化財、遺跡を中心に展示し、地上からだけでなく空からの視点も持ちつつ歴史展望をしてみようと企画した。

紅葉の始まった出雲大神宮   2010/11/4

 上空から見ると実に豊富な秋の色だ。

新緑の出雲大神宮   2011/5/15

 新緑の命の輝き・力強さを感じます。

色づく御陰山   2011/11/26

 出雲大神宮のご神体「御陰山」は自然林のため、多くが広葉樹の森である。そのため秋になると様々な色彩で彩られ美しい紅葉を見せてくれる。

夏の御陰山   2009/7/14

 出雲の集落方向から御陰山を見ると、きれいな山の稜線を眺めることができる。 写真下部の集落と田の境部分に新しい道路が整備されつつあるが、この道路予定地が出雲遺跡として2013年に発掘された。

春先の御陰山   2012/3/27

 丹波一宮を山麓に亀岡盆地を一望できたこの場所はかつて山城であった。現在でも曲輪が残っており往事の様子が伺える。背後からの攻略を防ぐために堀切が2段に築かれている。なお、本山はご神体につき立ち入りは禁止されている。丹波一ノ宮出雲大神宮のご神体山の御影山には、城跡が残っている。

「千年山集」には、小口村の安藤満五郎は御影山城(出雲)に陣し、明智の軍勢を防いだが、戦い利なくして城を出奔して丹後宮津へ赴き稲津甚左衛門と姓名を変えて過ごし、後小口の里へ帰った。記されている。

御影山城跡資料(新修亀岡市史 我が町馬路より)

2004年の出雲   2004/6/5

 条里制の名残がよく分かる写真である。それぞれの田には「藻」が浮いており風で流され田の隅に集積している。風がどちらから吹いているかよく分かる。 田の境界線が複雑な有機的なラインだが、これは等高線と関連している。高さは水の流れとも関連しており、自然の地形を巧みに利用した先人の努力が生み出した造形美である。

圃場整備中の車塚古墳   2008/7/26

 だんだんと進行していく圃場整備事業を脇目に、時代の流れを見つめる古墳5世紀からの1500年の歴史上で、これほど短期間に周りの様子が変わって行くのを被葬者は驚きの目で見たことだろう。この整備事業に伴い発掘調査が行われ、地下に眠る歴史が次々を明らかになった。

千歳車塚古墳   2010/9/12

 豊かな実りの田園風景に浮かぶ、車塚古墳。

菜の花の車塚古墳   2011/5/5

 車塚古墳の回りは畑となっていて、春は菜の花で埋め尽くされ、空からならではの美しい風景を見ることができる。

 

千歳車塚古墳   2005/6/19

 8年前の千歳車塚古墳の様子である。ここで注目すべきは、回りの田んぼの区画がほぼ正方形であることだ。条里制(じょうりせい)は、日本において、古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度である。ある範囲の土地を約109m間隔の正方形に区分するという特徴がある。この写真からは、高度差や用水路の関係から、正方形の中に実に複雑な形ができあがっているのが興味深い。こうしてみるとわずか8年前だが、亀岡の川東地区が大きく変化しているのが分かる。

草焼きの車塚古墳   2007/3/4

 地元の消防団の方々のお力で、毎年春の草焼きが行われている。それまで枯れ葉色だった古墳が、煙と共に真っ黒な古墳と変貌する。春の訪れを感じる風物詩だ。

黒い車塚古墳   2007/3/4

 web展に追加した資料です。見事に焼き上がりました。

車塚古墳 地上から

千年山麓の町並み 文化財や遺跡の紹介 2010/12/17

 河原林町上空から、千歳の町並みを見る。写真下部に今回取り上げる遺跡、文化財を紹介している。時塚遺跡は数年前に発掘調査された後、埋め戻されているので現在は見ることができない。千歳の七福神巡りコースが有名だが、それぞれの寺院の位置を紹介する。

保津 車塚古墳   2013/7/11

 草刈りの済んだ保津車塚古墳。緩やかな棚田の一角に保存されている。-----------------
発掘調査の結果、同古墳が二重の堀を持つ前方後円墳で、五世紀後半に造られたことが分かりました。周辺の堀からは、一般的に出土する土製の埴輪でなく、盾形の木製品が出土。周辺地域の政治勢力変遷を知るうえで重要な資料になりそうだと分析しています。

同古墳はこれまで形状や詳しい時期は分かっていなかったが、今回の調査の結果全長34mの前方丿円墳と判明。さらに、出土した須恵器から、同地域内では初めて五世紀後半の前方後円墳と確認されました。(保津百景道しるべより)

保津車塚古墳 地上から

馬路 坊主塚古墳   2012/4/28

 千歳町の隣、馬路町池尻にある方墳。画面下の建物付近は「池尻廃寺」の遺跡が発掘された場所である。・・・・・・・・・・

「古墳の墳丘は二段に築かれ、その斜面には石を葺いて飾り、墳丘の南側にはステージのような「造出し」がある。墳丘の周りには二重の周濠が巡り、その規模は一辺約六八□である。古墳の頂上と二股に築かれた平坦面、そして造出しには埴輪が立ち並ぶ。

 特に造出しには、円筒埴輪とともに馬・鳥・人物・笠(蓋)の埴輪が、さらに周温と周濠の間の堤にも馬・盾、盾持ち人形埴輪が立てられている。また、棺の中には鏡とともに甲冑一式が入れてあったことから、甲冑を身につけ、手に刀を待った馬路の王の姿が目に浮かぶ。 古墳は「倭の五王の時代」である五世紀後半に築かれ、倭政権の一翼を担った武人的な王の姿が想像される。これが発掘調査によって明らかになった坊主塚古墳の姿であり、今の姿から想像することは難しい。」(我がまち馬路より)

坊主塚古墳 地上から

丹波国分寺跡   2012/7/16

 画面中央の森一帯が昔国分寺がおかれた場所で、現在国の史跡に指定されており、亀岡市の名木、オハツキイチョウとラッパイチョウがそびえている。

 「オハツキイチョウ」の木は、垂れ下った樹皮が乳状になっている。母親が乳の出ない時にこのお寺に詣り、この銀杏の乳を撫で、その手で更に自分の乳を撫でると、母乳がよく出るようになるという俗信がある。
以下kotobankより
 現在の浄土宗国分寺境内には、塔跡の礎石や基壇が残り古瓦が出土するなど、往時の様子が想定できることなどから、1928年(昭和3)に国の史跡に指定され、2006年(平成18)に追加指定を受けた。正確な創建年代は不明だが、出土瓦から奈良時代末期と考えられている。現存する本堂は江戸時代の宝暦年間(1751~64年)の再建と伝えられ、1982年(昭和57)から5ヵ年計画で発掘調査が行われた結果、寺域は約250m四方で、西に金堂、東に塔、ほかに講堂、中門、中門回廊、僧坊が存在したことが確認された。金堂は創建時の瓦積み基壇と平安時代末期の乱石積み基壇が検出され、東西約15.8m、南北約11.6mの規模をもつと推定される。塔は心礎を含めて17個の礎石が残り、基壇は瓦積みと想定されるが、二重構造になっており、平安時代末期に修理もしくは再建されたことを示す。
出土遺物は大半が瓦類で、奈良時代末期、平安時代前期、同末期の3時期に大別できる。寺の東北の飛び地には国分寺の鎮守社と考えられる八幡神社跡がある。

国分寺跡 地上から

時塚遺跡と車塚古墳   2017/3/4

 時塚遺跡と車塚古墳の位置関係が分かりやすい写真だ。前日あたりの雨が発掘穴にたまり、様子がはっきり分かる。写真手前にある丸い遺跡は「時塚3号墳」ということである。

参考資料  京都府埋蔵文化財調査研究センター資料より

 下記資料を時計回りに180度程回転させると上記写真に関連することができる。

時塚遺跡   2004/9/23

 石器、土器が大量出土 亀岡、時塚遺跡

 亀岡市馬路町の時塚遺跡の発掘調査をしている府埋蔵文化財調査研究センターは24日、方形周溝墓から石器や土器を大量に出土したと発表しました。 同センターは、国営ほ場整備事業に伴って調査を実施してきたもので、弥生時代の方形周溝墓11基、古墳時代後期の円墳1基、奈良から平安時代の掘立柱建物跡14棟を確認しました。出土した物のなかに農業や戦闘用など多彩な用途の石器が含まれており、同センターは「この遺跡の集落が当時(弥生時代中期後半)の丹波地方で最大級の大規模集落であったと推測される」としています。

京都民報 当時の記事より

参考資料  京都府埋蔵文化財調査研究センター資料より

 下記資料を時計回りに100度程回転させると上記写真に関連することができる。

出雲遺跡発掘の様子   2013/10/13

 千歳町に新しい道路が作られているが、その工事にあたり発掘調査が行われた。・・・・・・

府埋蔵文化財調査研究センターは11日、京都府亀岡市千歳町の出雲遺跡で、平安時代末期(12世紀後半)に掘られた溝から中国製青白磁の皿などの破片が見つかった、と発表した。青白磁は、白い素地に青みのあるうわぐすりを掛けた中国製の磁器で、平安京の貴族が好んで使ったとされる。丹波地域では初の出土で、同センターは「周辺に有力者の館が存在した可能性がある」としている。

 調査は、出雲大神宮から西約200メートルにある約千平方メートルの田んぼで行われた。溝は南北約23メートルにわたって見つかった。幅は3・5メートル、深さは0・4メートルあるが、本来はさらに幅と深さがあり、居住域を区画するために掘られたとみられる。白磁碗や青磁皿も多数出土しており、同センターは「当時この地にあった後白河天皇の荘園や出雲大神宮の社家との関連を調べたい」とする。

 溝からは他にも、儀礼や祭事に使われて廃棄されたとみられる土師(はじ)皿や瓦器(がき)碗などが計千点以上もまとまって見つかった。弥生時代後期(2世紀後半)や古墳時代中期(5世紀前半)の竪穴建物跡もあった。(京都新聞より)

愛宕神社   2013/2/26

 愛宕の本宮・総社・元愛宕さんと呼ばれ、亀岡市千歳町国分養仙寺の山手にある。上空からは鎮守の森がうっそうとしているため、見ることができない。愛宕山頂の愛宕神社の本家であり、ここから分霊が京都鷹ヶ峰へ祀られ、さらに和気清麻呂の請願で嵯峨山山上に遷したのが、愛宕山の愛宕神社であるとされている。。

空から千歳七福神めぐりをいたしましょう。神応寺 (毘沙門天) 千歳町毘沙門 2011/8/9

養仙寺 (布袋尊) 千歳町国分 2011/8/9

蔵宝寺 (大黒天) 千歳町江島里 2010/11/27

金光寺 (弁財天) 千歳町中村 2010/11/27

耕雲寺 (恵比寿天) 千歳町北舎

極楽寺 (寿老人) 千歳町出雲 2011/4/14

東光寺 (福禄寿) 千歳町小口 2010/7/8