明智光秀と亀岡・丹波・山国・近江   2012/6

 今回は「明智光秀と亀岡・丹波・山国・近江」と題しまして、戦国時代を走り抜けた明智光秀のゆかりの地を空から巡るという構成としました。私が空撮を続けている、亀岡・京北・湖西は、彼とゆかりのある地が多く、改めて歴史的事実や逸話を含めながらそれぞれの地を鳥瞰して見ていくことも面白いと思い、企画させていただきました。
・織田信長の安土城を対岸に見る蓬莱山からの眺めや湖西南部 の眺め。
・亀山城を拠点とした丹波平定の足跡。
・京北山国周辺の眺め。
など、空から見た景色に戦国の歴史を重ね、思いを巡らしていただけましたら幸いです。

 今回の展示に当たりましては各団体のご支援や地元の方のご理解とご協力をいただきました。有り難うございました。歴史資料については、町史や史談会資料、インターネットでのレポートなどを引用・参考にさせていただきました。
 この展示の他にも、こんな所あんな所に明智光秀に絡む逸話がありますが、今後の勉強とさせていただくことといたします。
 それではごゆっくりご覧下さい。

 

上段左 八木城付近      右 亀山城跡
中段左 明智の紋        右 明智光秀の石像(滋賀県大津市坂本城公園にあります)
下段左 比良山上空から対岸 右 周山城跡

亀山城跡   亀岡駅側上空より撮影   2011/8/9

織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に天正6年(1578年)から築城した。
丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点となった
江戸時代初頭には近世城郭として整備された。当時は天守閣はなかったが、徳川政権になって天下普請により藤堂高虎が縄張りを勤め五層の天守閣を築いた。
現在は宗教法人大本の施設となっている。

亀山城跡   2011/9/29

保津川が渓谷に入る地点の北岸に位置する保津町は、大堰川上流の材木生産地からの筏による輸送に関わってきた歴史のある町である。
画面左に光秀の亀山城があり、ここを出陣した一団は大堰川を渡り、保津を横切り保津城跡から登る「明智越え」を通り京都へ向かったとされる。
また、本能寺の変の前に、明智越え②を通り愛宕山への参詣、西の坊での連歌会を催したこと特に有名な逸話である。

亀岡市篠町山本 この集落山手から唐櫃越へ向かう 2011/9/29

保津川が渓谷に入る地点の南岸に位置する篠町山本地区は、大堰川上流の材木生産地からの筏による輸送に関わってきた歴史のある町である。
その昔、足利尊氏も通ったと伝えられる唐櫃越えは、山本如意寺横(上記写真印)から入り、尾根沿いに進み上桂に出るコースである。
ここ亀岡から京へ明智光秀が軍を三段に備えて、北より明智越え、唐櫃越え、老ノ坂越えの三面より本能寺に向かったことでもよく知られている。

京への道のり   2010/5/17
保津の大橋上空から、京都市内、明智越え、唐櫃越え、老いの坂越えを一望する。
信長から中国攻めを命じられていた光秀だが、6月2日早朝、この三道に分かれて東へ軍を進め本能寺で信長を討った。

愛宕山上空より京都市内遠望   2010/4/25
 手前の山並が愛宕山。左遠景奥に近江富士、琵琶湖が見え、その手前に比叡山の山並みが見える。
 画面中央から左の大きな長方形の緑の区域は御所、その南に本能寺がある。御所の右手手前の区域は二条城。画面右は蛇行する桂川。
 愛宕詣でに登った光秀もこの景色を見て、天下の行方に思いをはせたのであろうか。王子神社  篠町王子  2012/10/30  

牛松山上空より京都市内遠望 愛宕山西の谷の集落が水尾 2012/3/14 

 光秀一行は明智越えで水尾まで登った後、愛宕山を正面から登り参詣したという。また、本能寺の変直前の愛宕参詣では連歌会を催しその時の  「時は今 あめが下しる五月哉」の発句は有名である。
 また、水尾の集落の西斜面に「清和天皇陵」があり、清和源氏の子孫である光秀はここに詣でたとも言う。
 樒原から神明峠を経て柚子の里水尾への府道50号線を山腹のわずかな筋でたどることができる。ちなみに、手前の谷は愛宕谷で、谷の中程に保津最大の灌漑用池「谷山池」が見えている。
篠町柏原付近の山陰道  馬堀から亀山城下へ  2011/9/29

 馬堀から京口へ至る、山陰道の様子。今年、馬堀駅に至る道路が整備された。写真では舗装したての道路が黒っぽく写っている。垣内で大きく曲がる山陰道は亀山城に入る「京口」に続く。年谷川を渡ると城下である。
 JR南部の都市部と対照的に、北側の田園地帯は昔の風情を保っており複雑な形の畦道が美しい景観である。畦には彼岸花が咲いているが、わずかに赤みを帯びた線がそれである。

千歳国分寺址   2012/7/16

 川東地域でも、明智の軍勢と戦ったことが伝えられ、国分寺でも戦があったという。
境内には大きな「オハツキイチョウ」の木があり、この木の垂れ下った樹皮が乳状になっている。母親が乳の出ない時にこのお寺に詣り、この銀杏の乳を撫で、その手で更に自分の乳を撫でると、母乳がよく出るようになるという俗信がある。
現在「丹波 NEW 風土記の里整備構想」により、周辺整備が進められている。

亀岡市千歳町 御影山   2012/3/27

丹波一ノ宮出雲大神宮のご神体山の御影山には、城跡が残っている。
「千年山集」には、小口村の安藤満五郎は御影山城(出雲)に陣し、明智の軍勢を防いだが、戦い利なくして城を出奔して丹後宮津へ赴き稲津甚左衛門と姓名を変えて過ごし、後小口の里へ帰った。記されている。
出雲大神宮は徒然草において「丹波に出雲と伝ふ所あり。大社をうつして、めでたくつくれり」と書き出され社前の一対の狛犬についての話が出てくることでも有名である。なお、御影山はご神体につき、入山は禁止されている。

「我がまち町馬路」より
御影山城

亀岡市千歳町 出雲大神宮の神池 地上から見るご神体の御影山 2010/11/17

神池に映るご神体御影山。境内の紅葉の木々の色と相まって大変美しい景色を見せる。
特に、境内の大銀杏は見事な黄葉を見せ、遠くからも見つけることができる。

亀岡市余部町古城 方行山 西岸寺 丸岡城跡の碑 2012/4/24

丸岡城跡付近 余部町古城  西岸寺 2012/7/16
 丸岡城(余部城)の城跡である。現在でも「古城」・「古城浦」・「政所」などの地名、城跡周辺に寺院などの跡地が点在し「兵庫寺跡」・「宝蔵寺跡」・「庚申堂跡」・城の東麓に「元西岸寺」(上記写真の印の位置)が残る。天正6年(1578)6月3日、織田信長の命を受けて丹波に進攻した明智光秀の軍勢が宇津根・雑水川・安行山の三方から丸岡城を攻めて落城した。

八木城山方面を望む 右手の山が八木の城山 2009/9/6

大堰川の通運、街道の要所、山と川の天然の要害の地に築城されている。
天正7年(1579年)6月27日、明智光秀は八木城の戦いで内藤有勝軍を破り落城させた。
八木城は内藤ジョアンゆかりの城としても有名である。丹波国三大城郭のひとつ(標高344m)にある山城である。
現在でも、本丸、天守台、石垣といった遺構が確認できる。

八木町史より

内藤ジョアン碑 八木町

 

神吉城跡地図 八木町史より

八木町神吉 神吉城跡を望む 2010/9/6

 画面中央の神吉和田区の山際の池のあたりから登って、左手の山に城があったという。(写真の印の場所)
「丹波史」によると、現在の旭町、山階村と神吉村との間の峰にあり、「明智源七郎出張の址」とされており、天昇年間に明智左間介(秀満)が周山城と亀山城を結石中間地点の山城として、明智源七郎を当城に拠らしめたとある。
高地盆地の神吉から他へ出る峠道には、星峠、碁石峠、柿木峠、紅葉峠、渋坂峠、神吉愛宕道とたくさんの道がある。

天童山上空からの約220度のパノラマ 山国、宇津平定の舞台 2010/6/24

高度1600mあたりからの合成パノラマ写真である。
左上が京都市内、周山より下流の京北宇津、八幡神社北側の山に宇津山城跡がある。写真中央が周山城跡が周山町。
中央から右上に伸びるのは弓削の里、手前が山国の里。ここ京北にもたくさんの山城があったという。
山国の右手奥に常照皇寺がある。
光秀は周山城を拠点として山国を治めるが、周山城は日本海からの2つの街道の合流点であり交通の要衝に造られたことが良く分かる。

周山城址地図 周山城跡を守る会資料より

京北周山  周山城跡   2010/5/15
 周山の町並みを見下ろすように尾根筋に城跡がある。(上記写真印の尾根)
 1579年(天正7年)信長の命により丹波の平定に向かった明智光秀が当地の戦国大名宇津氏を打ち破り、大堰川と弓削川が合流する地域、縄野村に山岳城を築き、中国の周の武王が善政を布いたという故事にならって、地名を縄野から「周山」と改めて以来この地が周山と呼ばれるようになったという。
 築城にあたり木材を集るために山国の常照皇寺も含め周辺の社寺を取り壊したとある。天正1O年までは明智光忠が城主として居城、本能寺の変後明智氏滅亡と共に周山城は廃城となった。

慈眼寺   2012/5/13
 周山城山の麓に、慈眼寺(下記写真印)がある。室町時代から安土・桃山時代の武将・明智光秀ゆかりの寺として知られている。号は、慧日山、曹洞宗の禅寺。本堂の本尊は、聖観世音菩薩。
 現在の本堂は、1967年に再建されている。釈迦堂は、周山の観音寺山(現在の周山中学の東)の、光秀が創建したという廃寺となった密厳寺から移築された。

慈眼寺の案内には
「・・また、この釈迦堂には明智光秀の木坐像と位牌が安置されている。天正3年(1575)織田信長に丹波攻略を命ぜられこの地を訪れた光秀は、四代にわたって悪政を行っていた宇津氏を攻め、戦に及ばすして降伏させ、村民を安堵させた。黒塗りの木坐像と厨子は、善政を施した光秀の徳を慕った村民が逆臣の汚名を避けるため、墨を塗り金具を外して密かに祀ったものといわれる。」とある。

慈眼寺

常照皇寺 縁起

京北 井戸 常照皇寺   2012/4/18

 京北井戸町の奥まった山裾にある。
天正7年(1579)明智光秀が周山城築城のための用材集めで取り壊され、丹波山国戦で全焼。さらに太閤検地で寺領没収により衰退。江戸期の後水尾天皇の尽力等もあり漸次回復した。
 大雄名山常照皇禅寺といい、南北朝の北朝初代上皇の光厳院が1362年(貞治元年=正平17年)頃に開創した臨済宗天龍寺派の禅寺である。法皇が御車を引き返してまで名残を惜しんだという「御車返の桜」や「九重桜」など桜の花が有名な寺。

宇津城跡のある山 画面中央 2012/3/21
宇 津の八幡神社の裏手になる山城跡。宇都頼高が築城したと伝えられる。天正七年(1579年)7月19日開城と伝えられ、明智光秀の丹波攻略の中で、宇津氏は滅亡した。宇津城はその後に明智氏にて改修され支城として機能したという。
 西方を流れる大堰川、直下を通じる周山道を眼下に見下ろし、北西の支城-嶽山城も眺望でき丹波と京を結ぶ水陸の要衝を占める重要な城であったと思われる。

坂本城跡公園   2012/3/30
 坂本城址公園の案内板によると、
「天下統一をめざし、戦国時代を疾風のごとく駆け抜けた織田信長は、元亀二年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ちすると、最も信頼する家臣の一人である明智光秀を、京都を扼する西近江の要衝、坂本に封じた。
 築城の名手であった光秀は、翌元亀三年、本公園の北方300mの湖岸に、安土城に次いで日本第二の名城と謳われた坂本城を築城した。坂本城には、姫路城のように大天主と小天主があり、城郭の範囲は、日吉山王祭のよびものの一つ、船渡御の神事が行われるこの七本柳にまで及んでいたとされている。なお、今も城、城畔、御馬ヤシキなどの字名が残っている。

坂本城跡公園の記念碑石版   2012/3/30
 坂本城址公園の明智光秀  の紹介文

比叡山より坂本・大津を望む   2007/8/12

画面左の湖岸の小さな湾に赤い鳥居状の建造物が見えるが、ここ周辺が坂本城跡公園である。(印の所)
坂本城は元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった明智光秀に対して、織田信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。豪壮華麗で安土城に次ぐ名城であったらしい。
西に比叡の山並み、東に琵琶湖という天然の要害を備え、比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われている。
光秀はこの坂本城を拠点として丹波平定に向かうことになる。

比叡山・大津市内方面を望む   2007/8/12
 坂本上空より近江大橋、大津、音羽山、山科、比叡平、京都市内を望む。画面右山腹に坂本ケーブルの線路が見える。画面右上、山科に名神高速道路が見える。大亀谷の山並の東側が、山崎の合戦で羽柴秀吉軍に破れ敗走してきた光秀の最後の地となった小栗栖である。
 元亀2年9月12日、信長の命を受けた明智光秀らは坂本から兵を送り比叡山を焼き討ちし、延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の様子がよく見えたらしい。

琵琶湖大橋から白髭神社のパノラマ   木戸沖からの湖西の景観   2010/11/11
 木戸山城址はカーレーター跡、北の谷を下ること5合目ほどの谷間にある。このあたりは、湖岸と山際の間隔が狭く、西近江の交通の要衝であり、山腹からの監視が重要であった。
 史書には、信長の命を受け 明智十兵衛光秀、中川重政、丹羽五郎左衛門等は、比良山麓の木戸城と安曇川近くの田中城を攻撃したとある。田中城と木戸城は、浅井長政の勢力下の城。荒川城跡は松の浦水泳場から山手へ、湖西道路の下のグラウンド付近(黄色の印)である。

木戸城跡地上より

打見山上空より対岸の安土の領地を遠望  手前は志賀町木戸付近 2012/8/25
比良山系打見山上空から琵琶湖、対岸の安土を望む。
画面右の建物はびわこバレイ山頂の、「ホテル琵琶湖アルプス山荘」である。
対岸の画面中央左は沖島、近江八幡の長命寺山、その奥にあるのが安土山の位置である。
湖西側左は白髭神社、右は比叡山。安土城から木戸まで直線距離で約18km。水軍ならばすぐの距離である。
東より押し寄せる信長軍は、安土山に建造された安土城を西征の拠点とした。城の麓は現在は干拓され農地となっているが、建造当時は郭が琵琶湖に接しており、琵琶湖の水運も利用でき北陸街道から京への要衝に位置していた。

初秋の湖西 上仰木の棚田 2011/9/11

仰木の山手は上仰木地区で美しい棚田の風景が広がっており、写真家今森光彦氏の写真でも有名な棚田が保存されている地区である。
農地は水の便の良い山裾にあり、住宅地は馬の背といわれる部分に集中しており独特の里山の風景を描いている。
奥比叡ドライブウエイの出口にあたり、比叡山延暦寺との関係も深い地区である。
下阪本の来迎寺の前で討ち死した森蘭丸の父の死体を来迎寺の僧が寺内に葬ったことで、光秀の比叡山焼き討ちの際、信長はこの寺を焼き討ちしてはならぬと「ふれ」を流したため焼き討ちを逃れた。
その際、来迎寺に比叡山の宝物が仰木を通じて運び込まれたという。

堅田駅周辺遠望 かつての今堅田城の場所 2012/8/26

今堅田城は、堀口掃部介貞祐が創建した今堅田湖岸にあった水城。
浅井・朝倉軍が織田信長に対抗するために、今堅田城に甲賀武士団の磯谷新右衛門を主将として守備させたが、明智光秀・丹羽長秀らに湖から攻撃をうけ落城した。
堅田は、琵琶湖の湖上通行・漁業に関する全権益を有していた自由都市であったという。